【掌編】キツネとぶどう
たぶんあちこちで見られること。お仕事あるある掌編。
負け惜しみ?
いいじゃない。それで心が平和なら。
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浅めの、それでいて幅は広い白い箱を手にゆっくりとデスクのあいだを歩いている総務担当の女性の姿が目に入った。
ああ、またか。
見なければいいのに、視線は自ずと止まってしまう。不自然に目を細めて笑っているような女性の顔が、童話に出て来るキツネに見える。
モヤっとしたものが胸に広がり、同時に、「ふーん」と、ため息のような、強めの鼻息が出てきてしまう。
ああ、どっかに逃げ出したい。
立ち上がろうにも手遅れだった。今さら目立った動きをすれば、余計に皆の注目を集めてしまう。
「紅白、どちらがいいですか?」
「紅白? え、これどうしたんですか?」
「商品として届いたんです。このあいだまで健保組合でやっていたでしょ、階段上り数競争」
「ああ、ありましたね、そんなの」
「部署別総合成績で三位だったから、紅白まんじゅうが届いたんです。紅いのと白いの、どちらにしますか?」
「えー、どうしようかな……、うーん、じゃあ、紅で」
総務担当の女性が席をまわるあいだ、一人、また次の一人と、全員にいちいち説明をしているから、進みが遅いのなんのって。
そんなの隣で話していたのが聞こえていたんじゃないの? さっさと選べばいいのに。
これも毎度のことだけれど、悪態をつきたくなってくる。ノロノロと進んでくるこのやりとりが聞こえているあいだ中ずっと、オフィスの自席は私にとって最も居心地の悪い場所となる。
二つ向こうの列に座っている派遣社員が席を離れるのが見えた。彼女も居心地が悪かったのだろう。
だよね。座っていたくないよね。
できることなら私も席を立ってしまいたかった。けれど総務担当の女性は、もうすぐそばまで来ていた。
私の隣にやって来ても、私には声をかけないだろう。飛ばされるのはわかっている。総務担当の女性が配って歩くのはいつも、全員に配布とはいうものの、正社員だけを対象にした、なにかだ。だから派遣社員の私は声をかけられない。飛ばされるのがあたりまえ、そういうものだとわかってはいる。けれど、わかってはいても、じゃあどうすればいいのか、がわからない。
私がここに座っていたら配りにくいんじゃないだろうか。初めの頃はそう思った。余計な気遣いをさせてしまったら申し訳ないな。本心からそう思い、心配もした。けれど今はちがう。じっと座っていて物欲しそうにしているヤツだと思われたらイヤだ。みすぼらしく思えたらどうしよう、と気が揉める。
だからといって、すぐ近くに配りに来ているのがわかってから立ち上がるのでは、いかにもなにか思うところがあります、とあからさま過ぎる気もする。
気にし過ぎ? そんなこと、ふつうは誰も気にしない?
そうだろうか。これはふつうの状況なのだろうか。ふつうの感覚を持っていたら、飲食物なんかを人を選んで配って歩けるだろうか? なにも感じることなく、大勢の中にいる数人だけに差をつけることができるだろうか?
私だったらできない。声をかけられない、もらえない立場の人が、おかしく思わないか、イヤな思いをしないか、ぜったい気になってしまう。対象外の人が不在のときを狙って配布したい、配布しようと考えると思う。だからきっとこれはふつうじゃない。
「どっちがいい?」
よく通る大きな声がした。部長の声だ。部長は部長のすぐ脇に座っている派遣社員に声をかけていた。
「紅白まんじゅうだってさ。どっちがいい?」
「えーっ、私なら……そうだなぁ、紅にします」
「オレの分は紅いのを田中さんにあげて」
部長は派遣社員の方を手の平で示しながら、総務担当の女性にそう言った。
お菓子などが配られると部長はいつも、それを隣席の派遣社員にあげてしまう。ただ間食の習慣がないだけか、はたまた気遣いからなのか、とにかく部長がそうしているのを、私はもう何度も目にしていた。他の社員の人たちはこれを見て、なにか気が付かないのだろうか?
部長とおなじように譲ってくれ、とかって意味じゃない。配られるのは全員ではないことに違和感を覚えて欲しい。それが持つ微妙な気配と、居心地を悪く感じる人の挙動に、なにか考えてみて欲しい。
立場がちがうのだから、ちがいがあって当たり前。そう言われれば、それはそうだ。当然だろう。仕事の内容も責任の度合いも、正社員と派遣社員ではちがう。けどだからって仕事以外のことであからさまにちがいを示されることが誰も不快にさせないと、もし仮に不快に思うような人がいても当然だと、そういうことになるのだろうか。
まあ、よくあることだよね。ブツブツ言っても仕方がない。こんなのどこにでもあること。この会社に限ったことじゃない。
知る必要のないことは知らされなくていい。直接の業務以外のことを知る必要もない。決められたことを滞ることなくこなしていく、外付けの労働力。おなじ計算に取り組む機械ではあるけれど、決しておなじマザーボードにはのっていない。正社員と派遣社員とを例えるなら、そんなところだと思う。
そりゃあ、中には上手に扱ってくれる会社もある。なにかに倦むことなく、淡々とやるべきことができ、余計なことを考える必要も不安に束縛されるようなこともなく、充実感を持って仕事をし、サラリとしていられる。そういう会社だってある。ただ、そんな会社はとても少ないのだ。あちこちへと決められた期間をお世話になる年月を経て、いつしか私は悟っていた。
適度な距離を持って働く立ち位置のはずが、多くの会社において、時に疎外され、時に内輪ノリを求められ、派遣社員、非正規雇用というのは微妙な場所に立たされる。そういう運命なのだと。
*
「全員、会議室へ」
そんな声がかかり、会議室に向かうと、
「ああ、キミたちはいい。社員だけでよかったんだ」
どうして来ちゃったの、驚いたなぁ。そんな表情を向けられる。全員には文字通りとはちがう意味がついていた。
「ひとり五百円。全員でご協力をお願いします」
そんな周知に、全員の意味を学習した私たちは悩まされる。
「私たちは、なし、でいいんですよね?」
白黒をちゃんと確認したい派遣社員が訊く。
「え、なんでそうなっちゃうの? おなじ働く仲間なんだから当然でしょ。全員からもらうよ」
五百円。問題は金額じゃない。全員なのだ。顔も知らない社員の送別品のカンパは、文字通りの全員から徴収される。
「来月最初の土曜日に、部内の懇親を深めるため、バーベキュー大会を開催します。全員、会費を今週中にご持参ください」
出欠は問われない。有無を言わせずの全員参加。全員の範囲については、もう誰も訊かなかった。
「会費はいくらですか?」
新入社員のグループが幹事役の総務担当の女性のところへ集まり、声をかけていた。
「いいの、いいの、新入社員は。ボーナスも寸志程度でしょ、だから、会費なしで大丈夫。そのかわり、他の人たちから全員一律六千円、もらっちゃうから」
総務担当の女性の不自然に目を細めた笑顔が見える。
「チッ」
二つ向こうの列の派遣社員が舌打ちした。
うん、そうだよね。舌打ちはどうかと思うけれど、気持ちはわかる。私もおなじだ。思わず小さく頷いてしまう。
そうだよね、私たちには寸志どころかボーナス自体、ないのにね。そういうこと、わかっているのだろうに。近くにいる他の誰かの気持ち、考えたことはないのだろうか。
*
そしてまた、派遣で働くことのメリットのはずである適度な距離は、仕事とはまた別なところでも保たれないことが多い。
「健康診断、何歳から胃カメラだっけ?」
「あの部長ってさ、勤続何年?」
「夏季休暇の申請方法わかる?」
そんなことを訊かれもする。
わかるわけがない。そんなこと、どうして私に訊くのだろうと思う。社員に訊いてよ、正規雇用の社員に。
そこに存在しているというだけで、別次元のきまりも知っていて当然だというふうに訊かれてしまう。近くにいる別の立場の人のこと、考えたことはないのだろうか。
理不尽だ。あれもこれも。
そう思って総務担当の女性に目をやると、人の視線なんてまったく意に介さないといった体で、なにやら家具がずらりとならんだパソコン画面をニヤニヤと眺めていたりする。
たまたまなら、そんなときもあるだろう。けれど、じゃあ彼女は普段はキッチリ仕事をしているのかといえば、見たところ、そうは見えない。勤務時間をゆったりと過ごし、定時にあがる。そんなんでものすごく成果があがっているのだとしたら、彼女はスーパーマンなんだとしか思えない。
もちろん、そんな人ばっかりじゃないってこともわかっている。でも目に付くのだ。おかしなものほど目に付きやすい。
恵まれているなぁと思う。正社員だから、正規雇用だから、たったそれだけの理由でこんなにも恩恵があるだなんて知らなかった。知っていたら、若いうちにどこか潜り込める場所を探して、私も権利を行使していたかもしれない。
それもまあ、今となっては無理なこと。中途採用には高度な技術も経験値も求められ、恩恵以上に実績が求められてしまう。これから育っていくであろう若い芽だと、認識される時期に潜入しなければ得られない特権を、羨ましくも思う。
そして世間は今また、働き方改革だなんだって、時短労働や休暇の使用を、そういう人たちの権利にプラスし始めている。成果主義だとか能力評価だとか、そういうものはなかなか根付かずいるというのに、お休みに関わる合理化はすごい速度で浸透している。
じゃあその分の負担は誰が負うの? いいように使われるのは誰なの? そんなことを考えずにはいられない。
「えー、どういうこと?」
比較的大きな声がした。見ればスマホの画面に向かってひとりごとを言っている社員がいる。ここに座る面々にスマホを使うような業務はない。それでも平気でスマホを弄ぶ、これもまた特権のひとつなんだろう。
ああ、もうっ。叫びたい。大声を出して暴れてしまいたい。
現実にはできはしないことを頭の中で叫ぶ。もうこれ以上のダメージは受けたくなかった。何も思いたくない。
私は立ち上がり、誰もが見て見ぬふりをする、散らかり放題の新聞置場を片付けることにした。時計の針は着実に進んでいる。あともう少しで定時だ。
始業開始十分前に出勤し、パソコンを立ち上げる。ざっとメールをチェックして、始業のベルを待つ。
トン、と突然振動を感じびっくりした。デスクに缶が置かれている。
「よかったらどうぞ」
総務担当の女性が言った。いつの間に配りはじめたのか、まったく気がつかなかった。そしてどうして? いつもの無視ではなく、私にも配ってくれる?
疑問に思いつつ頭をさげる。
「ありがとうございます」
「いいの、いいの、余ったから」
ああ、そう。余ったから。そうですか。
心の中だけでそっとつぶやく。日々のモヤモヤが届いたわけではなかった。まあ、そうだよね。そんなもんだ。
配られた細長い缶は見たことのない、ぶどうジュースだった。おいしそうと思うよりも先に、高そうだと思う。
社員はいつもこんないいものを配られているんだ。へえ、そっか。でも味はふつうかも。そうだ、うん、きっとそう。
これもまた心の中だけでつぶやきながら、私は缶のプルタブを引いた。
(了)