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【掌編】恋はあせらず
もう無理。
手にしたグラスをそのままテーブルに戻して立ち上がる。座っているときよりはいくぶんラクになったような気がするけれど、それでも明らかに、お腹は丸く膨らんで見える。やけ食い、大食いの産物だった。
「まいど」
笑顔で見送ってくれる若い店員のお兄さんに、小さく首だけを動かして挨拶をすると店を出た。家はすぐそこだ。わかっていても歩きたくなかった。
だからといって道端で立ち止まっているわけにもいかない。何とか気力を振りしぼって歩く。足取りもお腹も、信じられないくらいに重かった。
「つっ」
やっとたどり着いた家で玄関を開けた私を激痛が襲う。何かにぶつかって痛んだ足先を、押さえるようにして屈むと、今度は硬いものがお尻に刺さった。
まったく、イヤになってしまう。
ふぅっと、大きくため息をつきながら立ち上がり、その場から動かないように気を付けながら、ペチペチと壁を叩いた。
そうやってスイッチを探し当てて電気をつけるとそこには、ものの例えではなく、リアルに足の踏み場がない、荷物の散乱した部屋が煌々と照らし出されていた。
「他に好きな人ができたんだ」
そう言われたとき、「そうですか」以外に返せる言葉があるだろうか。
宣言されてしまったのだから、どうしようもない。ええい、バッサリさっぱり切り替えよう。頭ではそう考えるものの、簡単には実行できない。
結局、今夜はやけ食いをしてしまった。
(恋の残骸を片付けたい)
かろうじて空間が確保されているノートパソコンの前に座り、満腹で苦しいお腹を抱えながら思った。
どうしたら気持ちを切り替えることができるだろう。
(そうだ、メール……)
いつも開きっぱなしにしているメーラーには既読メールが並んだままだった。試しにカーソルを最下部までドラッグしてみる。
(一番古いのは……、2010年3月って……、5年前?)
驚いた。メールすら整理できていないのだから、部屋の荷物も溢れかえるはずだ。
思い切って全件削除のボタンをクリックする。彼以外からもらったメールも消えてしまうけれど、今は何も考えたくない。
こまごまと画面を埋めていた文字が、気持ちいいくらいに一瞬で消えた。
この際だからスマホのメールも消してしまおう。すっきり感に気をよくしてバッグを開けると、中からリップクリームがこぼれ落ちた。
入れ替えるのが面倒で、つい新しいものを購入しては、あちこちのバッグに入れっぱなしにしてしまうリップクリーム。こういう一つ一つが散らかる原因なのだろうとわかってはいる。わかってはいるけれど、改善できずにそのままにしていた。
すぐにはスマホを手にできないくらい、バッグの中にも物が溢れている。ガサゴソ探ると一つだけ食べたと思われるガムが出てきた。なぜか目薬は二つも入っている。
先に整理すべきなのはバッグの中だった。手帳、パスケースと、一つずつ中身を確認していく。財布にも化粧ポーチにも絆創膏が入っているし、眉えんぴつはポーチの中だけで三本あった。バッグの底には丸められたレシートや、誰かに貰ったのであろう個包装の飴が散らばっている。
必要なものだけを一つずつにして、後はコンビニ袋にまとめた。
一息つこうと冷蔵庫を開けると、今度はレトルトパックが目についた。三パックいくらでまとめ売りをしている調味用レトルトパックに印字された日付は去年のものだった。無言のまま、それらもコンビニ袋に突っ込む。
(万事がこういうことなのだ……)
自分の情けなさにすっかりやる気を削がれ、その後はもう、なにもせずにベッドに突っ伏してしまった。
寝ぼけながらトイレを出ると、何かを踏んだ。強い甘い香りが広がる。
(うわー、どうしよう)
踏んだのはミニチュアの香水瓶だった。プラスチックのフタが外れ、飛び散った香水が強い香りを発している。最悪だ。これでは当分のあいだ匂いがとれないだろう。
別れたばかりの恋人と、「いい匂いだ」なんて笑いあってペアで買った香水だけれど、今となってはもう、いい香りだとも思えなかった。
(まさか香りにまで引きずられてしまうとは)
トホホな気持ちでいっぱいになった。
(こんな気持ちはもう嫌だ。頭の中がごちゃごちゃとするのも、散らかった部屋にイライラするのも、もう嫌だ)
シンプルになりたいと思った。なにもかもシンプルに。
「すみません、体調がすぐれなくて……」
思い切って、会社を休むと電話をした。仮病ではあるけど、すぐれない気持ちを抱えているという意味ではウソではなかった。だから決めたのだ。今日は仕事を休んで片付けをする。
このままでは吹っ切ることすらできずにモヤモヤとした時間を過ごすことになってしまうと思った。失恋を引きずらないように、ぜんぶ片付けてしまいたい。すっきりと新しい生活を始めたい。部屋の乱れは心の乱れって、何かの本で読んだ気もする。部屋を片付けよう。溢れている物を減らして身軽になろう。
本気でそう決意すると、まずは床が見えるようにするために散乱した物を集めていった。
二個セット売りの綿棒は片割れだけがゴロゴロと出てくるし、箱入りだったはずの使い捨てマスクやシートパックが、バラバラとそこかしこから発見される。未開封のコミックスは同じ巻が二冊あるし、買い置きのつもりで買った詰め替え洗剤は種類を間違えたと思われるものが何個も出てきた。洋服にいたっては、ベッドよりも大きな山、二つ分もある。
(こんなにたくさんある中で、一体どれだけの物が本当に必要だというのだ)
荷物の山を眺めているだけで、自分のダメさ加減がイヤになる。もう、もったいないからと取っておくことを考えてよいレベルではなかった。
燃えるもの、燃えないもの、資源回収に出せるものと、市のホームページで処分方法について調べながら仕分けをし、なんとか目途がついたときにはもう夜中になっていた。
翌日からは、収集曜日に合わせて大量のゴミを出した。一週間かけて全部出し終わると、部屋は数段と広く見え、気のせいか、心も晴れ晴れとしたように思えた。
ここから私は生まれ変わる。大袈裟かもしれないけれど、そんな気持ちになった。
*
「ご近所でよかった」
肩を組むのでさえ難儀するくらいにヨロヨロと足元の覚束ない同僚を一緒に支えてくれた店員のお兄さんは、マンションのすぐ下まで付き添って送ってくれると、嫌味一つ言うことなく笑顔で去っていった。徒歩5分の距離とは言え、泥酔した客を送るなど、どう考えても業務範囲を超えているだろうに。
「ほら、もう少しだからちゃんと歩いて!」
酔いつぶれた同僚を家に連れて帰るのは初めてのことだった。今までの私なら、酔いつぶれたのが彼氏であろうと友人であろうと、タクシーに無理矢理でも乗せて帰らせていた。
今夜も最初はそうしようと思ったけれど、いつもは店の近くで客待ちをしているタクシーが見当たらなかったこともあって、不思議と連れて帰ってもいいかという気持ちになった。
これも失恋がもたらした何かなのだろうか。単に部屋を片付けたからだろうか。考え始めたら急激に眠気が襲ってきた。私も酔っ払っている。
(そういえば、送ってくれたお兄さん、新人さんっぽくはなかったけれど、初めて見る人だったな)
同僚をソファに寝かせ、自分もベッドに倒れ込んでから気が付いた。仲良くしているお兄さんならまだしも、私を常連と知らないであろう店員さんに良くしてもらったことで、ちょっといい気持ちがした。
メガネの真面目そうなお兄さんだったし、ちゃんとお礼を言いに行こう。もう眠りがそこまで来ている頭でそう思った。
「大将の料理学校時代の同級生なの? じゃあ、お兄さんも自分のお店を持とうとしてたりするんだ?」
翌日、遅めの夕食の時間にまた、私はいつもの店にいた。お礼を言うつもりで顔を出すと、私の他にはカップルが一組居るだけで店は閑散としていた。昨日同僚を運ぶのを手伝ってくれたお兄さんが一人で営業している。
「いえ、僕はもう趣味で料理をする程度になっちゃってます」
今はチェーン居酒屋の本社で、メニューを考えたりデスクワークの仕事をしているのだけれど、体調を崩してしまった友達の頼みで数日だけ店番をしているのだと、お兄さんは言った。
話しながら、これはいい人に出会ったんじゃないかと思った。思ったけれど、残念なことに彼はふつう過ぎるようにも見えた。優しいし無害な感じだけれど、ただそれだけのような……。
(ああ、でも、メガネ姿はちょっといい)
会話中なのをいいことに、まじまじと見つめてしまう。
「ね、メガネはどこのメガネ? 海外ブランドのとか?」
「いや、国産です。メガネ選びは大事なんですよ、見た目の良さも実用性も兼ね備えてなきゃいけない。なにしろ、目が悪い僕にとってはメガネが生活ぜんぶに関わってくるんですから。メガネにだけはうるさいですよ」
軽い気持ちでメガネについてたずねると、予想外に熱心な答えが返ってきた。自分のこだわりについて話す男の人は素敵だ。
「デザインだけだったらイタリアあたりのがいいのかもしれませんが、質のいいメガネっていったら日本のなんです」
「そうなんだ。私はメガネかけたことないから、そういうの全然知らないよ」
「メガネあるあるってやつですかね。他にもなにかあったかな……、そうだ、サングラスもそうですけど、テンプルは左からたたむものだって知ってますか?」
「テンプルってなぁに?」
「耳にかける部分、つるですよ」
話せば話すほど、知らない話題が次々と出てきそうだった。毎日の暮らしの中で小さいけどこだわりたい大切なもの、お兄さんのメガネに対する思いはそんな感じがした。そしてそこに端を発する話ができるのがかっこいいと思った。片付けたばかりの部屋が頭に浮かぶ。
(私もこんな風になれるかな。もうあれこれたくさん持たなくっていいや。ちゃんと持ちきれてなかったし……)
そう思ったとたんに、胸の中で新しい恋のチャイムが鳴った。
「ね、名前なんて言うの? お兄さんじゃなく、ちゃんと名前で呼びたいわ」
(了)
© 2015 Chiyoko Munakata
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