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マイベストフレンド
大人になると友だちを作るのが難しくなる。人づきあいの範囲が広がり、知り合いはかなり増えるけれど、知り合いは知り合いだ。友達となると難しい。
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憤慨している時の怒りの大きさは、長いため息とも、強い鼻息ともとれる、空気が漏れる音の程度で測れる。今、話をしているワタシは、鼻が鳴るくらいの鼻息を発しているはずだから、相当なレベルだ。
「それでなんて言ったと思う?」
焦らす必要はまったくなく、話したくてたまらないというのに、鼻息とともに出て来たのは質問だった。
「なんて言われたの?」
ワタシの勢いに気圧されることなく、ゆったりとした間合いの後に、カノジョは問い返した。ワタシは大きく息を吸い込んで答える。
「チームなんだから当たり前だろう、って」
「ああ……、それはムカッとくるね」
「わかる?」
「わかるよ」
「まったく、なにがチームよ。ワタシがおじいちゃん役員に、どうしてクリップアートはなくなっちゃったんだ、すぐに戻せ、なんて理不尽なことを怒られて放してもらえなくなっていても助け出そうとすらしてくれないのに、都合のいいときばっかり力を貸せとか言っちゃってさ」
思い出すと余計に腹が立つ。
第一、あんなデータ入力、せいぜい一日、見直しに一日、念のため二度目の確認をしたって三日でできるだろうに。それを一週間も寝かせちゃって、挙句、期限に間に合わないとか、アンタは入社何年目の先輩の社員だったっけ、って訊いてやりたいくらいだ。
ああ、腹が立つ。自分でもわかるくらいに強い鼻息がこぼれ出て鼻が鳴った。
「たいへんだったね」
カノジョは言葉は少ないのに、いたわりや優しさがたっぷり含まれているとわかる口調で言った。
「ありがとう。そう言ってもらえると癒される」
目頭がじんとなるくらい、本当に嬉しい言葉だった。
「それはよかった。それにしてもあなた、ここの店、ほんと好きだよね」
「うん、好き」
さりげなく楽しい話題にリードしてくれたのだとわかって、これもまた嬉しい。そんなカノジョとのランチが楽しいのはあたりまえだ。
普段の昼休みは自席でお弁当を食べることが多い。ビルの休憩室でササッと食べて戻ることもある。いずれにせよ、電話番も兼ねなければならないような、つまらないランチタイムが続くのだ。たまに外で食べるときくらい、好きなところで好きなものを好きなだけ、美味しく食べたい。
この店のランチは、店自慢の大皿のサラダにパスタかピザと飲み放題のオーガニックドリンクがついて、ちょうど千円。すこぶる美味しいときている。おまけに、テーブルとテーブルのあいだがゆったりしていて、窮屈な感じがしない。白い空間にオレンジや黄色や緑の、かわいらしいイスの背もたれがちりばめられ、ところどころにポップな陶器の小物がさりげなくディスプレイされていたりして、北欧の香りがする。それなのに場所がらゆえか、昼時でも入れなくなるくらいに混むことはない。大きな窓から柔らかい光の射す店内は、一人でランチを楽しむ人や待ち合わせらしき人たちで適度に席が埋まり、ゆったりと時間が流れていくのが見えるようだ。
ここはカノジョと出会う前からのワタシのお気に入りの店だった。会社の誰にも教えたくはない店だったけれど、カノジョならば、と連れて来て、以来、月に一度はここでのランチを共にしている。
おなじ会社で働く人ではあったけれど単にそれだけの間柄というのではなく、カノジョのことは友達だと思っていた。
大人になると友だちを作るのが難しくなる。人づきあいの範囲が広がり、知り合いはかなり増えるけれど、知り合いは知り合いだ。友達となると難しい。
一緒に働いたり、会えば言葉を交わし、ときには飲みに行ったりすることもあるけれど、仕事を抜かしてもつきあえるかどうか、個人的なことを話してもかまわないか、一歩踏み込むことも踏み込まれることも許せるか、そういうハードルを越え、友だちとなれるのはまれなことだった。
そしてむしろ友だちは減る。学生ではなくなり、恋人を、家庭を持ち、環境が変わり、だいじなものが変わり。それはお互いさまだった。いつのまにか連絡を取り合う回数は減り、音信不通となる。連絡を取ろうと思えば、関係を続けたいと努力すれば、減ることなどないのかもしれないけれど、なかなかそうはいかず、気付いたときにはもう減ってしまっていて、友達はほとんどいなくなっていた。
だからといって友だちができないわけではない。難しいだけだ。カノジョとの出会いがまさにそれで、カノジョとワタシはここ数年のつきあいになる。
どうして受けなければならないのかわからない社外研修に出掛けたことがあった。社で一日最低一人の出席が義務付けられていたというのを理由に、体よく受講を押し付けられた気がして、納得できずに参加をした。
やけに白い光の点いた、広さのわりに暖房が効きすぎた会議室にはマイクを通して話す講師の抑揚のない声だけが響いていた。業務とも結びつかず、興味もない、宗教にも似た精神論の講和が続く。質疑応答もディスカッションもない、とわかっていて真剣に話を聞く人はどれくらいいるのだろう。そんなふうに研修の流れに疑問を持つ以外に、ワタシの頭に浮かぶことはない。
午前中だけで妙に疲れ、眠気すら隠せなくなるであろう午後に憂鬱を募らせていた昼休憩のトイレの洗面所で、ワタシはカノジョに話しかけられた。
「こんな研修、疲れるだけよね、大丈夫?」
確かそんな感じの言葉だったと思う。とっさに返事ができずにいたワタシに、
「こういうのは鈴木さんとか、田口さんとか、時間の有り余ってる人に参加させて欲しいよね」
カノジョは社内でも屈指の給料泥棒の名前をあげて笑った。
おなじ会社の人は来ていないと思っていたから驚いた。そしてワタシも、まさにおなじことを思っていたから。
今にして思えば、時間にしてほんの1、2分の会話で、なぜかカノジョには気を許してしまったのだと思う。小さな同意と類似の化学反応が、人間関係の土台を急速構築した。
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オフィスで爆発してしまいそうなとき、ガマンならないとき、そのほか諸々が危なそうなとき、ワタシは席を立つことにしている。
トイレへ急ぎ、個室に入り、大きく深呼吸をする。腕をあげ、伸ばせるところめいっぱいまで伸びをしてから、ゆっくり腕をさげ、洗濯ピンチに吊るされた自分の身体がイメージできるくらいにまで脱力する。
姿勢を戻したら今度は、ぐるぐると背泳ぎの要領で腕をまわし、右回り左回りとぐりぐり首をまわし、わさわさと手首足首をふる。こうすると、ある程度の不快感は緩和される。それでもダメなときは、冷たい水で何回も、長々と手を洗って物理的に身体を冷やす。危険回避術として、ワタシはこんな行動をしている。
「ひどかったね、さっきの」
蛇口から自動で流れ出たり止まったりする水と、汚れてもいない自分の手とを見るでもなく眺めているところへ声をかけられた。顔をあげるとそこには社外研修で話したカノジョがいた。
「見てたの?」
水に手を濡らしたまま問い返す。
「うん。部長っていつもああだよね」
「あれで体裁を保てるとか、思ってるのかな?」
「たとえバレバレのウソを口にしていたとしてもね」
「おかしいよね」
「おかしい」
帰り道、最近話題になっている海岸に立ち寄った。遠方の客先に部長を伴って出かけた同僚がそんな話をしていたことを覚えていた先輩社員は、書類に部長の承認印をもらうついでに、そのときのことを訊ねた。
「江川海岸、行かれたんですって?」
あきらかに、ご機嫌取りの口調だった。
「いいですよね、あの海岸。海中電柱あるんでしょ? 僕も一度見てみたかったけど、最近撤去されちゃったっていうじゃないですか。残念だなぁ、ちょっと間に合わなかった」
調子よくペラペラと話す先輩社員に、
「たしかに私はその海岸には行ったことがあるけれど、どうして君が知っているんだね?」
「えっ? いや、このあいだ林くんがそんなようなことを言っていたので」
「林? 林がなんと言ったか知らないが、なんであいつはそんなことを知っているんだ? おかしいな」
「あれ、ご一緒されたんではないのですか?」
「一緒? 私と林が?」
部内の誰もが俯き、耳と心を閉じていたことだろう。二人が一緒に海中電柱を見たという話はそこにいるみんなに伝わっていた。それなのに、白々しく認めようとしない部長の言動に知らぬふりをするのは至難の業だ。林さんの不在も追い風になったのだろう。部長は一人で芝居を続けている。
話をしたくない部長の気持ちを、先輩社員も早々に察して話を切り上げればいいのに、「おかしいなぁ」などと首を傾げて、ぐずぐずとしている。
いたたまれない気持ちになってワタシは席を立った。そうしてトイレにやって来ての、この会話だった。
「なんかさ、部長と話をするの、イヤになっちゃうよね。仕事のことでも仕事じゃなくっても」
「わかる」
「なにか話をされても、それがすべて本当かどうか怪しんで聞かなくちゃいけないみたいな気がするっていうか……」
「そうだね」
「知られたくない行動なら、先に口止めしておくとか、そもそもそんな行動をしないようにするとか、どうしてできないのかな」
「最初からそれができる人なら演技なんてしないでしょ」
「だよね。ニコニコしててさ、一見、人当たりが良さそうに見せかけて、その実、腹になにかある。部長っていつもそんな感じだよね。知ってた? じーっと見つめ返すとフッと視線を反らすんだよ、部長って。ああ、モヤモヤする」
「知ってる。たしかにそういうときあるよね」
「でしょ! ……ああ、ごめんね。グチ聴いてもらっちゃって」
謝りながらワタシは蛇口から手を離した。両手はもうすでに冷たくなっていたけれど、やっと冷やすことができたように思う。
「今日は部長、このまま席にいるだろうけれど、定時まであと一時間ちょっとの辛抱だよ。がんばって無視していて」
励ますように笑って、カノジョは去っていった。
いい人だな。ワタシはそう思った。そしてこのとき以来、ワタシの日々のモヤモヤは、カノジョが聴き、癒してくれるようになった。
***
マッサージやエステに整体、至福の癒しはいろいろある。けれどそういう身体をラクにしてくれるもの以上に、内面が、心が癒されると、幸せの根底にある、生きていくための力が増すのだとつくづく思う。
カノジョと知り合えたのはラッキーだった。ワタシはときどきカノジョのことを考える。
カノジョは生来の癒し系、ヒーラーなのだと思う。といっても、霊的ななにかをするだとか、スピリチュアルな助言をくれるとか、そういうのではない。もっと現実的なコミュニケーションスキルで、ワタシのやる気を引き出し、モチベーションをあげてくれる。
カノジョはワタシがダメになりそうな、ここぞというタイミングで声をかけてくれる。訊き出すようなそぶりも、喋らせるような気配もなく、ワタシが自然と話すのに任せてくれる。まさにワタシもおなじことを思っていた、そう思うことを口にする。もしかして心が読めるのでは、そう思わせるくらい的確に、ワタシの欲しい言葉をくれる。
カノジョはある種の能力者だ。ほんの少しの会話で人をやる気にさせるなんて、誰にでもできることじゃない。超現実的特殊能力の持ち主。カノジョのようになろうと思いつつ、できない人がたくさんいる。できる上司はやる気を引き出す、みたいな本が研修課題に選ばれたりするのだから、そういうことだろうと思う。
新人教育中の先輩社員や管理職の言葉に思うことがある。
もうちょっとましな言い方、できないのかな、と。
いや、ことがある、どころではないな。かなり頻繁に思う。ああいうとき、カノジョが先輩なら、上司なら、きっといいコに育てることができるだろうな、と思う。自然と誰かの成果をあげて、会社の業績だってあげてしまうかもしれない。カノジョによってすべての根底にある、生きていくための力が増す。
だからワタシはカノジョと知り合えてラッキーだ。そんなふうに思える力を、カノジョはワタシに使ってくれる。ごくふつうの日々の、あたりまえのこととして。
声がかからない。誘われない。
席を外すタイミングもわからず自席に座り、ワタシはモヤモヤとしていた。早く終わってほしい会話ほど、延々と続くように思える。
「みんなで飲みに行くなんて、たまにしかないんだから楽しもうね!」
何分くらい経っただろう。ワタシにとっては長い試練の時間のあと、そんな台詞を潮にやっと、近々飲みに行こうと盛り上がっていた人たちはパラパラと外出して行った。
顔は妙に暑いのに、キーボードを打つ指先を冷たく感じる。お腹の底には、ずんと重石が置かれたみたいだ。最後まで声をかけられることはなかった。
ワタシは「みんな」ではなかった。おなじ部署に働き、すぐそばの席に座っていても、「みんな」には入らなかった。特に仲良くしているわけではないけれど、関わりがないわけではないし、距離を置いたりする理由もないはずだ。それでも誘われなかった。
無視されていたのだろうか? チラリとでも視線を送り、確認するべきだっただろうか。
胸がモヤモヤとして気分が悪い。
「今の感じ悪かったね。気にしてる?」
不意にすぐそばでささやかれてビックリした。
カノジョが居た。
「ワタシ嫌われてるのかな?」
「そうじゃないと思うけど」
「仲間外れにされてるとか? まさかハラスメントのなにかだったりする?」
「うーん、まあ遊び仲間には向かないって思われてはいるだろうね」
「そっか。そうだよね。……行きたいのかって言われると正直微妙だけどさ、誘ってももらえないっていうのはちょっと……ね」
「だよね」
予想はしていたけれど確信を持てずにいることについて、カノジョに正直な思うところを口にしてもらって、スッキリはした。落ち込まないわけじゃないけど、それでも必要以上に卑屈にならずに済む。
そうだ、誘われて本当に飲み会に参加しなければならなくなったとしたら、たぶん今以上に気を揉み、気を遣い、イヤな思いをするにちがいない。声をかけられなかったからなんだというのだ。ちょうどいいじゃないか。そんなふうにも思えた。
「よかったら買い物でもして帰らない?」
おまけにカノジョはワタシを誘った。
****
誰かと買い物なんて久しぶりだった。いつのまにか買い物はひとりでする派になっていた。とくに欲しいものがあるときの買い物はひとりがいい。
話し好きの店員に捕まるのとおなじくらい、好みでないものを同行者に勧められるのはガマンならない。いい買い物をするためには、納得いくまで考えて、場合によってはあっちこっちとおなじ店を何往復かすることになるかもしれない。誰かに気を遣っていたらとてもではないけれどできない行動を、ひとりでする買い物は可能にする。
だからもし、店で偶然誰かに会ったり、誰かとともに買い物をする状況になってしまった場合には、買いたいものがあることは伏せ、ウインドウショッピングに勤しむに限ると決めてもいた。それなのについ、
「ちょうど一枚、カットソーが欲しいと思っていたんだよね。Tシャツまでカジュアルになっちゃうものではなく、シャツよりはきちんと感の薄い、トップスが欲しい」
漏らしてしまってすぐに後悔した。
いくら気が合うといっても、ぜんぶがぜんぶは無理だろう。洋服の好みがちがうか、買い物のスタンスがちがうか、なにかしら気に入らないところが見えてしまうかも。そうなるのは残念だ。せっかく仲良くなったのに。
ワタシはなかったことにはできない言葉を悔いながら歩いた。
「カットソーじゃないけど、あれなんかどう?」
そんなワタシの憂鬱などすこしも気付かないふうで、カノジョはすぐ先の通路から奥まったところに立つトルソーを指差した。そこにはシンプルでゆったりしたシルエットのチュニックがあった。余分な装飾がなく、ありふれたデザインとはすこしだけちがった型はワタシの好みにもあっていた。
「かわいいね。けど動けるかな?」
手を伸ばし、生地の触り心地を確認しつつ返事をする。
手触りは悪くない。あとはこれを着たとして、棚の上の段ボールを下ろすことができるか、床に落ちたクリップを拾うことができるか、会社での動作にまつわるあれこれに支障がないか、が気になった。
腕をあげた拍子にお腹が露わになるとか、屈んだら裾が床についてしまうとか、ワタシには仕事中に気をつけたいポイントがいくつかあった。たまたま見ていた誰かに見苦しいと思われたくはないし、変な姿を見せてしまって、みっともない思いはしたくない。
「ああ、あの人みたいにならないかって心配なのね」
「わかる?」
「わかるよ。脇だとかお腹だとか、見えちゃてるのに自分では気にならないものなのかな。ああいう風にはなりたくない、ってことでしょ?」
「うん」
「試着して鏡でチェックしてみれば安心だよ」
「だね。着てみる」
やっぱり見ている人は見ているのだ。どんなに見た目がステキでも、それだけでは仕事着には成り得ない。オフィスカジュアルはオフィスでの動作に問題がない範疇でカジュアルが許される。そういう服だと言える。
カウンターで伝票整理かなにかをしている店員に試着したい旨を告げると、ちょっとビックリした顔をされた。
あ、止めといたほうがいいかな。
反射的にそう思ったけれど、
「夕方遅い時間だから、試着するお客さんが珍しいんだろうね」
カノジョがそんなことをつぶやいてワタシの背中を押した。
すごいな、なんでもわかっちゃうんだな。
背の高いハンガーボックスみたいな個室の中でモゾモゾと服を脱ぎながら、ワタシはまたカノジョのことを考える。
カノジョはワタシのことをなんでもわかっている。理解しようとしてくれているというよりは、もうすでにわかっているのだと考えるのがしっくりくるくらいに、わかっている。
こんなにも気が合う相手って、これまでいただろうか。うさぎチームにするかクマチームにするか、ピンクにするか水色にするか、食べるか食べないか。そんな風に今よりもずっとずっと世界が小さかった子供のころには、おなじ選択をする子がいっぱいいたけれど、大人になってあれこれ選べるようになってからは、ピタッとくる人などいなかった気がする。
こんなこと、もう二度とないかもしれない。カノジョと知り合えたのは本当にラッキーだったと思う。
着てみたチュニックはサイズも着心地も、申し分なくワタシの好みにあっていた。
「よかったらコーヒー、飲んで帰らない?」
支払の後、今度はワタシがカノジョを誘った。
「いいね」
二つ返事でオーケーをもらう。いち、に、と数えるみたいに、そんな感じでのオーケーだ。点呼をとられた時のようなカノジョの返事のタイミングに、ワタシはまた幼稚園のことを思い出した。
「コーヒー牛乳飲むひとー?」
「はーい!」
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こんなふうにときどき、ワタシとカノジョは一緒に過ごすようになった。
「いつも聴いてくれてありがとう」
「どういたしまして」
ワタシは常にカノジョにお礼を言っていた。そして癒してもらうのはワタシばかりだと気が付いてはいるけれど、それを口にしたことはない。これだけ気が合うのだ。いつか自然に、カノジョがワタシにグチをこぼしたいと、思ってくれる日がくるといい。
「最近、休憩室使ってないでしょ?」
カノジョに問われ、ワタシは頷く。
複数の会社の入ったこのビルには、ビルの入居者全員が使える休憩室があった。巨大な社員食堂のようなところだ。値段にはあまりお得感はなかったけれど、食券制だから外に食べに出るよりは簡単で、とにかく広いものだから、お昼ちょうどに訪れてもそこまで混雑はしない、便利な場所だった。
ワタシも、あたたかい麺類が食べたいときなんかに行って、サッと食べて戻る、という感じで利用していたのだけれど、ここのところ足が遠退いていた。
「それがさ、ちょっとイヤな人がいて」
「ああ、あのおそろいのエプロンかけてるグループでしょ?」
「わかる?」
「わかるよ。見ているといたたまれない気持ちになる」
そうなのだ。
たぶんどこかの会社で一緒に働いている人たちのグループなのだと思う。おそろいの、大きなポケットがついた紺色のエプロンをした五人組が、少し前から休憩室に現れるようになった。ワタシは彼女たちと一緒になるのがイヤだった。
五人のキャラクターはわかりやすく、簡単に言うと、一人が話題豊富でおしゃべりな女性、その話題の良し悪しを判断して会話の方向性を決めるリーダー格の女性がいて、二人のあいだで調子よく話についていく女性もいる。それから常に「うんうん」「へぇー」と相槌専門の女性が一人と、個性的なおっとりとした口調で話す女性が一人、のグループだ。
広い休憩室のどこにいても彼女たちの声は聞こえてくる。声の大きさやトーンの問題もあるだろうし、彼女たち以外にベチャベチャと話し続ける利用者がいないというのもある。彼女たちの出現前は、部屋の端でつけっぱなしになっているテレビの音が、うっすらとそこにある、人の存在の音の中で目立っている。そんな感じの休憩室だった。
ところが、最近は彼女たちの会話の中に他の利用者たちがひっそりと存在している、そんなふうにも見える雰囲気になっているのだ。それも質の悪い討論会のような、一人を笑いものにして盛り上がったつもりになっている、そういう会話が繰り広げられている。
「あのひとたち、どうして一緒にお昼食べてるのかな。仲良しには見えないよね?」
「どうしてだろうね」
「特にさ、おっとり話すあの人。いっつも笑われてるだけじゃないじゃない? バカにされてるって気づいてないのかな?」
「バカにされているって認識があったら、さすがに一緒にごはんを食べたりしないと思うけど」
「そうだよね。だとすると気付かずに、みんなキツイなぁとか、キビシイな、とか思ってるのかな。それならそれでいいのかもしれないけど、でも、あんなふうに話を聞き出すだけ聞き出して、なんでそんなことしてんの、ウケるー、とかってあざけるように話してるの、やっぱおかしいじゃない。ワタシならそんな話切り上げて、別のことを話すようにするけどなぁ。誰もそうしないの、おかしくない? 仕切ってるあの人が怖くって誰も注意できないのかな?」
「気を遣う方向がおかしいんだろうね」
「ひとこと注意してやろうかとも思うけど、余計なお節介をして、あのおっとり話す人がひとりぼっちになっちゃうようなことにしても良くないだろうし」
「そうだね」
「結局なにもできず見てるだけって思うと、あの場所にいるのが苦痛で。で、休憩室が遠退いてるの」
「そっか」
いいとも悪いとも、どうしろとも、カノジョは言わなかった。それが今のワタシには心地いい。ワタシもそれ以上はなにも言わず、ただフォークを動かしてパスタの皿を空にする。
あのグループもこういう感じだったらいいのに。
*
「お水、お注ぎしますね」
レモンの浮かぶピッチャーを軽く持ち上げるような仕種をして、店員が水を補充に来た。軽く頭をさげるとフワッとさわやかないい香りがして、ワタシのグラスには水が注がれる。
「お連れさまの分は、またいらっしゃった際にお持ちいたします」
店員が向かいの席に置かれたグラスに手を触れる。
「あっ」
途端にフッと、カノジョの姿が消えた。空っぽのイスが急に目の前に迫ってきたような気がした。空けてあったイス。カノジョのためのイス。そう、カノジョは他の人の目には見えない。
「いかがいたしましたか?」
ワタシがあげた小さな声に、店員は不思議そうな顔をする。
「いえ、すみません。もう出ます」
ワタシは伝票に手を伸ばした。もうそろそろ昼休みも終わる。
「いつもありがとうございます」
会計をしながらワタシは、一人でランチを楽しむ人や、待ち合わせらしき人たちで適度に席が埋まった店内を眺めた。
「また近いうちにね」
心の中でそっとカノジョに話しかける。
ゆったりと流れていく時間と、手つかずのグラスが置かれた席の向こうに、たくさんのカノジョに似た姿が見える気がした。
(了)
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