マイペースな彼女 番外編― 好敵手―
「最近、私ももう歳かなって思うよ」
休憩室にある自動販売機コーナーの隅で恵子を見かけた。
コーヒーのいい匂いが漂っている。カゴに積まれたミルクを手に、一つ、二つと注ぎながら、恵子は大きなため息をついた。
「そう? そんなことないわよ。私なんてこのあいだね」
氷が紙コップに投入される、ガーっという音を効果音にして、おばあちゃんが自分の話を始めた。恵子がもたらした憂いを含んだ空気は一瞬にして塗り替えられる。
おばあちゃんと言っても、このおばあちゃんは本当のおばあちゃんではない。彼女は恵子がランチを一緒に食べに行く仲間のうちの一人だ。年齢的には恵子よりも年上で、噂に聞く勤続年数はお局さまと言っていいくらいなのだけれど、さすがにまだおばあちゃんと言われる年齢ではない。それでも彼女は雰囲気がとてもおばあちゃんっぽい女性だった
おばあちゃんは恵子に、なぜ憂いているのか訊ねはしない。彼女たちは他人の話すことになんて興味がない。行動を共にしていることが多いけれど、仲が良いのか悪いのかわからない、不思議なグループなのだ。
それにしても、恵子が「私も歳かな」って、そんなことを言うなんて驚きだ。
偶然にも意外な言葉を耳にした私は、なにを買おうか迷っているそぶりを装って自販機の前に立ちつつ、全身を耳にしていた。次に恵子がなにを言うのか聞き逃したくない。今の恵子の口ぶりは、謙遜ぶっているけど実は自信満々の、恵子によくある言い方ではなかった。いつもの恵子ではない。
努力の甲斐もなく、残念ながら恵子はそれ以上言葉を発しなかった。コーヒーの紙コップを手に、恵子はそのまま休憩室を出て行った。
恵子はなにを考えていたのだろう。遠ざかっていく小柄な背中が、気のせいか普段よりもさらに小さく見えた。
理由はまあ、わからなくはない。彼女だ。
先週、会社に新しい人が入った。残業が続く経理主任と恵子の負担を減らすための人員補充だそうで、経理担当の新人さんだ。
そもそも経理主任は別としても、恵子はなんだかんだとフラフラして勤務時間を過ごし、定時が過ぎるころにやっと本格的に仕事に手を付けているように見えるから、本当に仕事量が多くて残業しているのかどうか怪しいという問題があるのだけれど、会社はその事実についてはなにも考えていないらしい。とにかく経理担当者が増員された。
新人さんの出勤初日、経理主任の声かけによって歓迎ランチが行われた。事務職ではめったにないのだけれど、一応、ランチミーティングの扱いになるお仕事ランチで、それなりの体裁を整えなければならなかったから、全員が自己紹介をした。
「どちらかというとマイペースだねって言われることが多いです。食べ歩きや買い物が趣味かな。コンサートに行ったりもします」
恵子が自分をそんなふうに形容するから驚いた。「どちらかと」ではなく「完全なる」マイペースだとツッコみたいところを、私はやっとの思いで飲み込んだ。
さらに、出勤初日の新人さんの自己紹介はこれまで私が聞いたなかで最も驚くべきものだった。
「なんでも白黒ハッキリつけないとイヤな性格です。早起きして新聞を読むのが趣味。もう何十年も続けてます」
初対面でそんなことを言われても、と思うような性格紹介に同席した多くの人たちが困惑した。見たところ二十代後半から三十そこそこの女性が、「何十年も続けている」と言うのも違和感がある。
戸惑い、反応できずにいる皆の中で、恵子だけは新人さんの自己紹介に頷きながら、「私もそうだよー」とまたもや耳を疑うようなことを口にした。
私も、とは性格のことだろうか、趣味のことだろうか。ハッキリした性格の恵子、何年も早起きを続ける恵子、どちらもまったく想像ができない。
新人さんは恵子の言葉を表情一つ変えずに聞き流し、まわりの皆も、誰もなにも言わなかった。皆については、言えなかったというほうが正しいかもしれない。
奇妙な間を埋めるように、次の順番の人が慌てて自己紹介を始めたときには、「ホッ」と吐かれた多数の吐息が聞こえたような気がした。
あのとき、こんな事態になるんじゃないかと私は予感した。恵子と新人さんがすんなりと打ち解けることができるはずがないと。一週間が経った今、恵子もそれに気付いたらしい。さてさて、これはどうなることやら。
休憩室を出て席に戻ると、恵子がデスク置いた紙コップに手を添えたまま蝋人形のように固まっているのが目に入った。またなにかあったのかもしれない。ハッとして恵子の向かいに座る新人さんに目をやる。すると、恵子とは違いリラックスした様子の新人さんは、はさみを手に自らの髪の先をじっと見つめ、枝毛をカットしているところだった。
それからすぐ、予感は現実となった。新人さんは恵子を上回る大物だった。あれこれ起こり過ぎて、なにが特筆すべきことなのかわからなくなるけれど、本当にいろいろある。
毎月、月初めに恵子は大量の請求書を印刷する。これはのちのち新人さんも担当することになる、経理にとってメインと言えるくらいに大きな仕事だった。いつもとは違い、仕事ができるOL風の口調の恵子が請求データのまとめ方から発行まで、一通りの流れをレクチャーしていた。
珍しく真剣な恵子に対して、教わる立場の新人さんは冷めたもので、頷くことも、メモをすることもなく、ただ黙って座っていた。今まさに印刷中の請求書、恵子がお手本にと作成している今月分の請求書にもまったく興味を示さない。
他人がする作業を見ていただけだから仕方がないことかもしれない。本番しかやる気の出ないタイプなのだろうと一歩譲ってもいい。けれど、この新人さんに至っては興味がなさそうなだけでは済まなかった。
長引く印刷を待つあいだ、自席に戻った新人さんは、しばらくなにごとかをしている様子だったけれど、ほどなくして立ち上がりプリンターへと近寄った。プリンターはガーガーと一定速度で用紙を吐き出し、恵子が始めた請求書の印刷を続けている。
「はぁー」
まだまだ止まらなそうなプリンターに、新人さんは大きなため息をついた。それから席に戻り、一分と待つことなくまた立ち上がるとプリンターの様子を眺めに行っては大きなため息をつく、そんな行為をまるで反復練習かなにかのように繰り返した。
新人さんの不機嫌な様子は傍からも一目瞭然だった。だからといってどうしようもできない。今教わっている仕事以上に急いでしなければならないなにかは、まだ新人さんにはない。彼女の考えていることは誰にもわからなかった。
結局、新人さんのイライラはプリンターが請求書の印刷を終えるまで、約数十分間続いた。誰もがハラハラと見守り、やっと心配事から解放されたと胸を撫で下ろしたとき、今度は恵子が一際長く大きなため息をついたのだった。
静かな社内に内線の音が響いた。
「電話、鳴ってますよ」
新人さんが恵子に言う。
ここでの電話応対のしきたりを教わったばかりの初日、新人さんは率先して電話を取った。けれど、その日の午後には電話に手を伸ばさなくなった。恵子の離席があまりにも多く長いことに気が付いてしまったらしい。
「内線、恵子さんにだと思うんで自分で取ってください」
「ちょっと恵子さん、今、席離れないでくれますか。またかけなおしますって言われたって伝えましたよね。そろそろかかって来ると思うので」
誰もが言いたくても言えずにいることを、新人さんは平気で口にするようになった。
そして電話のことをきっかけに、新人さんの恵子に対する態度は、どんどん投げやりになった。恵子に声をかけられても返事をしないこともあれば、ケンカ腰に質問を返したりもする。とても直接仕事を教えてくれる先輩に対する態度とは思えないし、年長者に対する尊敬はみじんも感じられない。
その一方で、他の社員に対しては明るく友好的に話しかける。とくに、一週間前まではここで最も社歴が若かった元新人ちゃんには好意を持ったようで、頻繁に声をかけた。
「私、先輩からお仕事教わりたかったですぅ」
元新人ちゃんに対しては甘えるような可愛らしい声を出して言う。新人さんはどこから聞いても恵子への当て付けのような発言を繰り返した。
これが耳のいい恵子に聞こえていないはずはない。はしゃぐ新人さんに、うんざり顔の恵子。そんな様子が日に何度も、セットで見られるようになった。
ここまで来るとさすがに上役たちも異常に気が付いた。
会計アプリがうまく動かずデータの更新ができないと苛つく新人さんの質問を受け、恵子がパソコンをのぞき込んでいたときも、経理主任はさりげなく心配する気配を発していた。
「おかしいなぁ、一度電源を落としてみようか」
いつも通り、本当におかしいと思っているのかどうかわからない口調でおっとりと話す恵子の提案に、
「そんなことして今まで入力した分がぜんぶ消えちゃったら、もちろん先輩がやり直してくれるんですよね?」
新人さんは牙が生えてきたのではないかと思うくらいに声を荒げた。
「まあまあ、そんなこと言わないで」
新人さんに押され気味の恵子を気遣って、経理主任が助け船を出す。
「大丈夫なはずだから、ひとまずシステムを再起動してみよう」
諭すように言うと新人さんの返事を待たずに電源ボタンに触れる。恵子と新人さんのあいだに入り三人並ぶと黙ったまま、青くなっていくパソコンの画面をじっと見つめた。
パッとパソコンが光るみたいに立ち上がり、画面に色が戻ると、経理主任はすぐにキーボードをパチパチと叩き、サクサクと会計アプリを動かした。
つい先ほどまで新人さんが開いていた画面にまで進めると、「やってみて」と言わんばかりに新人さんに視線を送り、キーボードから手を離した。新人さんはマウスを取り、データ更新と書かれたボタンをクリックする。考え込む暇もなく、更新完了のポップアップがあがった。
「すごーい、できた! ありがとう」
ありがとうではなく、ありがとうございます、だろう。近くに座る皆が思った瞬間、
「優しい主任に幸あれ!」
新人さんはさらに砕け過ぎたセリフを続けた。それだけ言うと満足したのか、それまでの不機嫌はどこかへ飛び去り、ふんふんと歌うようにデータを入力し始める。
「幸あれ……」
皆が驚きのあまり小さく復唱する中、ガタンと乱暴にイスを引く音が響いた。恵子が立ち上がっている。恵子はカステラの底についた薄紙を噛んでしまったときのように微妙に顔をゆがめたあと、床板を踏み抜きそうな剣幕で席を離れていった。新人さんはキーボードをパチパチと叩き楽しそうなリズムを奏でていた。
そんなのウソでしょ、そう思われてしまうかもしれないけれど、これは実話である。恵子は怒りを露わにするときもあるけれど、日に日に疲れた様子を濃くしているし、やりたい放題の新人さんは元気いっぱい、常にフルパワー充電されているかのようだ。
過度のマイペースで傍若無人の恵子ですらダメージを受けているのだから、新人さんの大物ぶりがわかるというものだ。本当に驚くくらいの強者が来てしまった。びっくりを通り越して感心する。
そして我々、ふつうの人間は皆、新人さんの行動によって社内にヒヤリとした緊張が走るたび、心配で胃を痛めている。
それでも、これはこれでありかもしれないな、とも思う。これまでさんざん人を振り回してきた恵子を変えることができる人物がいるとしたら、もう彼女しかいない。新人さんを見ているとそんな気がするのだった。
これからどうなるのだろう。どうなってしまうのだろう。
「あんなふうにできたら世の中もっとラクショーなんだろうな」
以前、恵子の姿に思ったことを、今また思っている。そして新人さんという後輩ができた元新人ちゃんとときどき顔を見合わせつつ、私は祈っている。マイペースな彼女たちに驚かされっぱなしの、ふつうな我らにも幸あれ、と。
(了)
© 2017 Chiyoko Munakata