【短編】マイペースな彼女 番外編 ―解きぐすり―
時間はすべてを凌賀する。
「絶対におかしい」そんなふうに思っていたことが、いつのまにか「あたりまえのこと」になる。
恐ろしいことに、恵子の信じがたきマイペースもいつのまにか見慣れた光景となり、私たちは日々、受け流すコツを覚えて、それなりに平穏に過ごしていた。
それでもときどき、不意な訪問者や出来事に、忘れかけていた、「オイオイ」という気持ちを思い出すことがあってビックリする。そうだ、そうだったよねと。
***
全社規模のイベントの一環で研修が行われることになった。会場はこのオフィスに隣接する大会議室。普段は持て余している会議室に、空き状況の多さから白羽の矢が立った。
本社人事総務部から準備の依頼が入る。驚くことに、内容に関わること以外のすべてが丸投げされた。人手不足で、離れた建屋を行き来して準備などできない。だからそっちでなんとかしろ。単純な理屈だ。
外出の多い営業部の面々が都合を合わせるのは難しい。そうなると自ずと事務メンバーが準備要員も兼ねるような雰囲気となる。私と元新人ちゃんと恵子、実質三人で動かなければならない。数ヶ月前にやってきた新人ちゃんは、すでに会社を辞めていた。
まもなく人事総務部から当日使用するという資料が届けられた。参加者名簿は付いていない。
「これ足りるの?」
パラパラと紙の束をめくりながら元新人ちゃんが言う。
「どうだろう?」
私も問い返すしかなかった。PC上で召集がかけられ、参加するのではないかと推測される人数分よりも、届いた資料の部数は少ないように思える。コピーしておくべきだろうか。
考え始めると、やるべきことは次々と出て来た。イスはどうする? 机の配置は? トイレの案内掲示はつけておく必要があるだろうか?
元新人ちゃんと相談する。恵子はいつもどおり、タイミング良く席を外していた。
「がんばらないとだね」
二人で励ましあっていると経理主任が立ち上がった。
「当日はたいへんだろうから私も協力しよう」
そんなありがたい言葉をかけてくれた傍で、恵子のクスクス笑いがあがった。三人の視線が恵子に集まる。いつのまにか戻って来ていた恵子は、社内広報のホームページを見て笑っていた。
経理主任が目を逸らした。露骨に見ない振りをした。そんな様子を見て、私と元新人ちゃんは、「やれやれ」の大げさなジェスチャーをする。
深く考えないのが一番だ。いつものことじゃないか。腹を立てて苦しむのは自分だ。時間がなんとかしてくれる。
***
手探りながらも準備は整い、研修は滞りなく始まった。百人近い人間が集まる。参加者は六人ずつに分けられて、グループディスカッションを課せられた。
テーマは「モチベーションの上がるオフィスレイアウト」。未来のオフィスでもいいし、ドラマに登場させたいようなおしゃれなオフィスでも、異星人の惑星のオフィスでもかまわない。特別な気持ちで仕事ができる場所のイメージを話し合い、具体案化してみようというものだった。
近くに座りあわせた同士をひとまとめにする要領で、講師がグループ決めをした。恵子と元新人ちゃんと私に、秘書課の女性三人が加わる形で、私たちはグループとなった。さらにくじ引きをしてグループで一人、進行役が決められる。優しいお姉さんといった雰囲気の秘書課の女性が進行役になって、ディスカッションは始まった。
部屋の形態、必要な設備、配色に配置、こまかなことまでを、グループで一枚の用紙に記入するようにと指示があった。
「一つずつ意見を出し合っていきましょうか」
進行役が、こういうときの定石通りの提案をした。
「空間を大きく取った部屋のほうが息が詰まらないですよね」
最も若手でありそうな秘書の女性が口火を切った。
「たしかに。今のオフィスはどうですか? 広いの?」
進行役が私たち三人の顔をのぞき込むようにして言う。
「狭くはないんですけど、詰め込まれている感じで机がひしめいてます」
元新人ちゃんがハキハキと答える。
「営業がおなじタイミングで外から戻って来ちゃうと人口過密に」
私も続く。
「秘書課は前から人事課の隅の席に居候しているような状況だから、常にそんなかも」
「まず広さが重要ね。デスクはどう? やっぱりこれからはフリーアドレス?」
テンポよく会話がまわり始めた。盛大に盛り上がったりはしないけれど、着実に回答枠が埋まっていく。
「ええっと、佐藤さんはどう思う?」
黙っている恵子に進行役が声をかけた。
「……」
恵子の返事はない。
「ごめんなさい、佐藤さんじゃなかったっけ? 名前間違えちゃったかな?」
進行役がふたたび声をかけるとやっと、
「みんなの意見とおんなじです」
恵子はボソッと口を開いた。暗く生気のない声に、場の空気が一気に萎む。
「だったら……」
若手でありそうな秘書の女性が換気するみたいに明るい声を出した。
「ホッ」
皆が吐く息が漫画の吹き出しのように見えた気がした。
それからも恵子はただ座っていた。人形のように表情なく、ときどきユラユラと身体を揺らし、好き勝手に動いてみたり、発言するでもなく、ハッキリとは認識できないようなつぶやきをしてみたり。その場に居ながらディスカッションには参加せず、いつもどおりマイペースに過ごした。進行役に促されると返事だけはするものの、意見はなにもでてこない。
そんな恵子のせいで秘書課の三人に迷惑がかかってはいけないと、私は積極的に発言をした。元新人ちゃんもそうだった。
「やっと終わる」
必要以上に気を遣い、なんとかディスカッションを乗り切ったとき、口にこそ出さなかったけれど、私と元新人ちゃんはおなじ思いで頷きあった。
***
短い休憩を挟んで、あとは最後のまとめ、感想や気づきを一言ずつ発表しあえば、研修は終わる。参加者の上司であろう人たちが数名入室し、会場の後ろに控えた。経理主任の姿も見える。
「意見の多様性に考えさせられるものがありました」
「ふだん接することの少ない部の人たちとコミュニケーションが取れてよかったです」
みんなが場にふさわしく、大人らしい当たり障りのないコメントを発し、残るはあと数人というところで、恵子の番になった。
ここに来てやる気スイッチがオンになったのか、恵子はシャキッと立ち上がる。
「今回、研修に参加して、私は自分の才能というか、特徴に気が付くことができました。大勢の初対面のみなさんとお会いして、目の前の人がどんな人なのか、私は、その人のひととなりみたいなことが見えました。相手の気持ちを瞬時に感じ取れるような、そんな力があるようです。これからはこの力を活かしてお仕事がしたいと思います」
そう言って堂々と会議室中を見渡すようにしてから、恵子はゆっくりと着席した。
その間、会場は無重力空間になったかのようだった。ふっと、音の無い時間が訪れた。「へっ?」と聞き返そうにもなにも聞こえず、わけがわからなくなった。今になって思うと、あっけにとられるとは、まさにあのときのことだろうと思った。
たっぷり一分はあったであろう空白の時間ののち、
「……そうですか、機会があったらお聞きしてみたいですね」
講師が気遣いだと思われる言葉を返した。
「ですよね。一覧表にまとめたりして、正誤のチェックをしてもらってもいいかな、うふふ」
恵子はさらに求められてはいない言葉を追加して、満足げに微笑んだ。
「笑えない!」
私は言葉に出して訴えたかった。恵子のどこに、そんな感知能力があるというのだ?
そんな力を持っているなら、ふだんから使って欲しい。勝手に昼休みを延長したり、就業時間にゲームをしていたり、恵子のマイペースぶりに周囲が抱く困惑をこそ、察知してくれ!
もと新人ちゃんの目もネコのように丸くなっていた。経理主任は露骨に頭を垂れている。また意図的に視線を下げたのだろう。
「ふぅー」
研修の終わりを待たずして、疲れ切った私は深くため息をついた。
考えてはいけない。そうだ、深く考えないのが一番だ。また時が許しを与えてくれるのを待つ日々が来た、それだけのことだ。時間は本当の意味では解決してくれないけれど、やんわりとあいまいに、忘れさせてくれるだろう。
マイペースな彼女を前に、ほかに望むべく道はない。私たちに必要なのは時間だった。
そうだ、そうだった。
時はすべてを凌賀する。
(了)