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『若者のすべて』とビオン
フジファブリックの「若者のすべて」は、少なくとも歌詞に関してはJPOP史上最高の一曲ではないかと思う。
この曲には「二人称」が出てこない。
「私」の心的体験が終始描かれるこの曲を聴いた私は、共感を抱いた。
夏の終わりの花火大会という、落ち着かない街の空気の中、もしかしたら好きな子に逢えないだろうかとあてもなく出かける。確実に会えるための調査や、(やや親しかったとしたら)約束などはしない。「逢えなかったらそれは運命。それでも会えたら運命だと思って・・・」なんてぼんやりさせながら、「ないかなないよな」なんてブツブツ言いながら徘徊するのだ。
自分が「若者男子」だった時のことを思い、「そんなことあるよな」と思いながら聴く。
そこまではフツウの「いい曲」ならあることだ。
そこからこの曲の聴き手は一気に思考を展開させられる。「単に歌っている彼と私の二人の偶然の一致ではないのではないか」という考えを経て、次には「この行動は自分の小っ恥ずかしい若気の至りや性格なんてものではなく、ヒトという動物に普遍的な行動なのではないか」、と。
この曲は「二人称を省く」ことをはじめ、サビに入るといきなり周りの情景から隔絶された少年の独り言のような主語も述語もない歌詞に変わる効果によって、この若者の行動を「抽象化」することに成功しているのだ。
精神分析の巨人ウィルフレッド・ビオンは「情動的経験はつねに未知(O)であり、知識(K)はかえって経験することの妨げとなる」と論じる。「いつ、どこで、だれが、どのように」など(5W1H)を十分に働かせた後でそれらを休ませ、「私」の直観を持って初めて意味ある経験となる。この曲は上記の仕掛けにより、ビオンのいう生得的知識、「前概念preconception」を体現しているようだ。それが聴く者、聴く私という「容器」に流れ込むことで、劇的に意味を生成する。「犬」という抽象化された「用語」が個人の経験と連結することによって意味を獲得するような「聴く者の体験と化学反応して初めて完成する象徴化された歌」を志村は作り上げたのだ。
名曲と呼ばれる歌にはこのような効果がある程度ある。しかし例えばJohn Lennonの「Imagine」なら「宗教や国籍がないと想像してごらん」、サッチモの「この素晴らしい世界」なら「この世界は(それでも)素晴らしい」という作り手の価値概念が含まれている。「あの素晴らしい愛をもう一度」なども名曲だが、より聴き手が言葉から直接メッセージを受け取る要素が強い。
それに比べてこの曲はヒトの切なさやときめきも、単に動物の生態に過ぎないのだ、というようなドライで無色な魅力がある。この曲の「生態図鑑」のような効果を、作詞作曲した志村正彦自身が自覚していた、むしろ狙って作ったからこそ、歌詞に「若者」も「すべて」も出てこないこの曲に、彼は「若者のすべて」という生態図鑑のようなタイトルを付けたのだろう。