工業高校に行きたい①
残念ながら私は、勉強が大嫌いな子供だった。
というか、多分かなり変わった子だったと思う。
産まれたときもあまり泣かずくねくねしてるだけで、赤ちゃんの時も夜泣きなんて数えるほどしか無かったらしい。
おもちゃも欲しがらない、おもちゃ売り場行きたくない、ミートボールやハンバーグ、カレーは嫌い、ピーマン大好き、
誰に対しても恥ずかしがらずにちゃんと挨拶もする子供だった。
「小学校に入るまで」は育てやすかったらしい。
正直、私は極度の面倒くさがりだった。
箸を持つのも面倒くさい、口に運ぶのも面倒くさい、お風呂も歯磨きも…
とにかく全部面倒くさい。
そして忘れ物や失くし物がめちゃくちゃ多かった。
家の鍵は数え切れないくらい失くした。
宿題や教科書は1日に1つは忘れた。
なんでこんなに忘れ物が多いのか、と、先生も親も頭を抱えていたが私もわからないし、
子供ながらに「なんとかなるやろ」で生きていた。
私の両親は「勉強しなさい!!」などと口酸っぱく言うタイプでは無かったので、
それに甘えて勉強はしなかった。
考えるのが面倒くさかった。
「勉強できなくても字が綺麗ならそれなりに見える」
という教えのもと小学校1年生から習字教室に通った。
面倒くさかったが写して書くだけで考えなくていいのと、
家から10秒で行ける距離だったので勉強するよりマシだった。
小学校4年くらいからはダンスに夢中だった。
ずっと歌って踊っていたので勉強なんかしなかったが、小学校の勉強はそんなに難しくないので、本当に「なんとか」なっていた。
が、中学生になると突然勉強が難しくなった。
自分の中では高校に行かない選択肢はなかったのでちょっと焦ったが、
もうすでに勉強のやり方がわからなかなった。
勉強はなんとかならなかったが、
勉強できんくても「なんとかなるやろ」と思っていた。
小中学校も嫌いだった。
先生も好きじゃなかった。
自己中心的で周りには煙たがられてたし、しかし自分は何も悪くないと思っていた。
当時の同級生にはかなり不快な思いをさせたと思うが、その中に優しい子もいて無視されたり一人ぼっちになることは無かった。
ただ、朝は本当に起きれず、遅刻がデフォルトだったくせに授業も寝ていた。
とにかく眠かったし、とにかくお腹が空いた。
私の両親は私の高いレッスン代(この頃歌もダンスも習っていた)を稼ぐために共働きをしてくれており、
私が学校に行く時間にはもう家を出ていたので、悪事の全てが親に明らかになる三者面談はめちゃくちゃ怖かった。
このままじゃだめだ、と、母親は塾に入れようとし、塾に相談に言ったが、
「本人もやる気がないし、この成績だと入れられない」
と塾側から断られた。
そんなことあるか??
まあ行かなくていいのは何よりだった。
勉強はできなかったが、高校には行きたかった。
でも勉強はしたくなかった。
何しに行くとこやねん。
じゃあ私はどこの高校に行きたいの?
「お母さんはどんな高校行った?」
「お母さんは田舎やから、男は農業科で女は家政科って相場で決まっとる。」
なるほど、これは参考にならん。
「父ちゃんは?」
「父ちゃんアホやったからな!
お前は中学校の裏にある当時ウラ高って呼ばれてた工業高校でも行っとけって先生に言われてな!
そこ行ったんや!だから電子科や!」
工業高校??工業高校って男子しかおらんくてむさ苦しくてヤンキーとオタクしかおらんとこか??
それはしんどいな…。
「でも工業高校は専門的なこと学べるから普通の勉強少ないで。」
えぇ?そうなん??と思って調べることに。
ん?なんやここの工業高校。
工業デザイン科?!!
デザインとか響きがおしゃれやな。
しかも女子も多いだと??!
ここにしよ〜(安易)
「父ちゃん〜、ここにするわあ〜」
「え?!西野田工業高校?マイが?頭足りへんやろ」
「え?名前書けたら受かるやろ」
「そんな学校存在するか!!!」
後から聞いたのだが、父ちゃんの時代はその高校は偏差値60弱あったらしく人気の学校だったらしい。
そりゃその反応するわ。
私の第一志望校はそこに決めた。
先生もここなら、とokしてくれた。
受験当日、受けに来ている人に頭の良さそうな人はいなかった。(失礼)
受験なのにずっとハイチュウ剥いてる女の子とかいた。
そして私は見事合格。
…というか、定員割れしてたので全員合格した。
名前が書けたら受かる高校は存在した。
つづく…
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