わたしにとって、「考える」という行為は、頭の中のごちゃごちゃした思いをなんとかしてまとめようとするためのもの。
そして、「文字に起こす」という行為は、そんな思いを無理くりまとめて蓋をするためのもの。だと思っている。だからわたしは、書き上げたnoteはポストしたきり読み返すことはあまりない

ここ数日、どうにも心に留めておくにはあまり良くない思いがぐるぐると渦巻いているので、ここに昇華して蓋をしようと思う

わたしは、生きていたい、とも、死にたい、ともあまり思ったことはないが、生まれてこなければ楽だったのにな、と思うことはまぁまぁある。この世は見渡せば辛いことだらけで、健やかに生きていくには難しすぎる。「幸福感」やら「自尊心」とやらは、そんなこの世でなんとか生きていくために人間が生み出した一種の麻薬みたいなものだと思っている。

こんな風に悲観的な思いを抱いているのは自分だけだなんて傲慢な思いはない。むしろ、こういう考えをもつ数多の人間たちが、文学や映画や音楽といったカルチャーを生み出したのだと思っている。一方で、こうやって「気を紛らわせながら」じゃないと、やっぱり生きていけないんだよなぁ、と思うと悲しい気持ちにもなる。

話は逸れたが、
この「生まれてこなければ楽だったのになぁ」みたいな類の感情をわたしが完全に払拭できるまで「子どもを産む権利」をもつべきではない、と思った話を今回はしたい。

元来子ども自体があんまり得意ではなく、出産育児に対して前向きな感情を抱いたことはなかった。それでも、(おそらく)異常のない生殖機能を宿された以上、それ相応の義務は果たすべきだという使命感のようなものは薄々と感じていた。

しかし最近職業柄、それぞれ何かしらの問題を抱える親子をみることが多くなり、自己を投影する機会が増えた。そして自分の将来を考えたときに、生きることに悲観的になってしまった我が子に対して、「それでもこの世は生きるに値する価値がある」と胸を張って伝えられるだろうか、と考えてしまうのだ。

先々の杞憂かもしれない。それでも、「生きていることは素晴らしい」と自身が思えるようにならなければ、わたしはこの世に新たな生命を生み出すことは許されない気がする。

今後、こんな鬱屈とした考えを根底からひっくり返してくれるような人と出会うかもしれない。それこそ、そうなったらやっと、「人生って面白いな」と思えるようになるかもしれない。でも今は、そうやって新しい価値観を取り入れることも面倒くさい。それに新しい人との出会いも許されないこのご時世だからこそ、日々暗澹とした思いが積み重なっていくのである。

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