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わたしが新卒で日高村に移住をして、イラストレーターをしているワケ①

改めて、新卒で高知県日高村に移住をし
地域おこし協力隊として
イラストレーターをしている、むらかみゆかです!

「イラストレーターしてる」と言うと、
「美大とかに行ったの?」と聞かれるけども
芸術系の大学に進学したわけではなく、
教育学部出身で小学校の教員免許を持っています。

「あっじゃあ美術部だったの?」と言われるけど

中学校:ソフトテニス部
高校:硬式テニス部
大学:ラクロス部

と美術部に入ったこともなく、
学生時代の10年間は外で走り回っていました。

「じゃあ、なんでイラストレーター?
しかも、縁もゆかりもない日高村で?」
と聞かれるのがお決まりのパターンです。

私が日高村に移住をしてイラストレーターをしてる
ワケは簡単に言うと3つ。

①小学生のときのイラストレーター
 という夢を思い出したから

②川がきれいなところに
 住みたかったから

③運とご縁のタイミングの3拍子が揃ったから

今回は「①小学生のときのイラストレーターという夢を思い出したから」について、書いていきます✒︎

【小学生期】将来の夢は「イラストレーター」だった


小学校の時、春の教室によく張り出す
自己紹介カードの将来の夢の欄に、
ずっと書き続けていたのが「イラストレーター」だった。

いつ絵を仕事にしている人がいる
ということを知ったのかも
「イラストレーター」という言葉を知ったのかも、
覚えてない……。

けど、8歳(くらいだったと思う)の誕生日
おじいちゃんに「何でも買(こ)うたる!」と、
文房具屋さんに連れて行ってもらったときに
選んだのは“ペネロペの12色の色鉛筆”で

10歳(くらいだったと思う)の誕生日
おじいちゃんに「何でも買(こ)うたる!」と、
文房具屋さんに連れて行ってもらったときに
選んだのは“三菱の36色の色鉛筆”だったことは、
覚えてる。

自由に絵を描くのももちろん好きだったけど、
自分が描いたものを家族や、
おじいちゃん、おばあちゃんに渡して回って
「ありがとう」と言われるのが好きだった。

自分が好きな絵を描いて、
自分の好きな誰かが喜んでくれる
ことに、
子どもながらに喜びを感じていたんやろうなと。

【中高生期】給食好きだから先生になろう〜

しかし「あれ、私ってそんなに絵上手くないぞ??」
と気がつきはじめてしまったのが、
小学生から中学生に上がるころ。

美術の成績だけはどんなに頑張っても
5を取れたことはなかったし、
夏休みの宿題で描いた絵が、
何かに入賞したこともなかった。

ただただ好きで絵を描いていた小学生から
思春期?になると周りと比べて
自分なんかより絵がうまい人はいくらでもおるわ……
と気がついた。

それからは「将来の夢はイラストレーター」
と言うことはなくなってて
絵を描くとしたら、
ノートや教科書の端っこへの落書きくらい。

(多分、全く落書きしてないノートや教科書ない)

パラパラ漫画とか謎の生物を描くのが好きだった

「将来の夢は?」と聞かれたときに
「イラストレーター」と言えなくなってからは、
代わりとなる将来の夢を
無意識に探してた気がする。

(なぜか「将来の夢は?」という質問には
すぐ答えられないといけないような
気がしていたたんだけど、私だけなんかな?)


その頃から
「中学を卒業したら大好きな給食が食べれんなるし、
給食が一生食べれる、先生になろうかな〜」

とぼんやりと思うようになってた。

ちなみに「ほんとに給食好きやったん?」
ともよく聞かれるので、
どれくらい給食が好きやったかというと、

小学校を卒業する時、給食のおばちゃんに
「おいしい給食を6年間、ありがとうございました!」
という手紙を渡したり

基本的に1週間の献立は覚えてたから
友だちに「今日の給食って何〜?」
って聞かれるのが日課だったり

「『ただいま!今日の給食は、〇〇がおいしかったよ〜』
が学校から帰って来たあんたの第一声だったわ〜」
と今でも母に言われたりするくらい。

そんな給食大好き中学生の思いつきのまま、
高校の進路希望調査は
3年間「〇〇大学教育学部」と書いて提出し
本当に教育学部に進学した。

【大学生1期】どっぷりラクロス中心の生活

大学生活の中心は、圧倒的に"ラクロス"だった。

高校時代はテニスを結構本気でやってたので
「大学では、もうなるべく走りたくない!!」
と心に決めて入学したはずが、
上手に新歓され気がついたら入部していたラクロス部。

人生ではじめての団体競技で
何にもわからないし、難しすぎる……。
だけど、昨日できなかったことが
できるようになっていく
ワクワクが止まらなくて、
気がついたらラクロスにどっぷりはまっていた。

なんか結局大学時代もめっちゃ走ってた

朝は5時半に起きて、6時から練習。
空きコマがあれば昼寝をするか、
グラウンドで自主練をするか。
そして夜は居酒屋バイトみたいな生活だった。

【大学生2期】就活?いや、ラクロス!

就活が始まる3回生。

教育学部なのでもちろん、
教員採用試験の勉強を始める人が大半の中、
「私に先生は無理だ…」と思った。


きっかけは、たしか教育実習。

ものすごくしんどいことを
覚悟して臨んだ実習だったけど
びっくりするくらい楽しかった。

けどその反面、
とても純粋な子どもたちに「先生!」と言われると

大学の授業を受けただけのただ学生で
社会のことも世界のことも何にも知らん、

しかも「給食食べれるしな〜」「子ども好きだしな〜」
くらいの気持ちのやつが、
なっていい職業ではないな……

子どもたちに教えれること何もないな…
とひしひしと感じた。


だけど「じゃあ、他に何をする?」ってなった時、
何にも頭に浮かばなかった。


ちょうどその頃、ラクロス部では
先輩が引退しチームの代替わりの時期。

チーム体制やら目標やら
考えなきゃいけないことは、
ほっといてもいくらでもあった。

(チームによるけどラクロス部は、
基本的に4回生が幹部で11月ごろまで現役)

もちろん、卒業後のことも
考えないといけないのは分かっているけど
不器用で要領が悪い私は、
一旦、将来のことを考えることをやめた。

とは言え、進路が決まっていないわけにはいかないので
「心理学に興味あるし大学院に進学して、
臨床心理士の資格を取る!」
ということにしてた。

でも、その当時は”将来のことを考えるのをやめた”
とか、”ということにしていた”という意識は
全くなかったと思う。

「大学院に行きたいんだ〜」
と口に出していたし、本当にそうだと思っていた。

【コロナ1期】ラクロスができなくなり、どん底

進路も決まったということで
引き続きラクロス中心の生活を送っていた中
突然、突入したコロナ禍。

「なんかコロナっていうのが流行ってるらしいよ」
からはあっという間で
徐々に活動が制限されて、
遠征や合宿は中止になり
しまいにはグラウンドに行くことさえ許されなくなって
家にこもる日々がはじまった。

zoomで戦術MTGをしたり
毎朝、みんなでオンライン筋トレをしたり
各自でランニングをするくらいしかできない。

いつグラウンドでの練習が再開できるのかも
目標としてる試合が開催されるのか、
中止なるのかもさえわからない。

前例がなさすぎて常に手探りの中で
4回生の自分たちはどうにかチームの
モチベーションを保つ方法を考えないといけないし
不安な様子を見せるわけにもいかない。

そんな状況の終わりが見えないまま数ヶ月たった頃、
ラクロスをはじめてから初めて、
役職も全部放りなげて「ラクロス部やめようかな」
って思ってしまうくらいにはなってた。

それと同時に迫ってきてたのが、院の試験だった。
勉強をするしかない……。
けど、これまた全然手につかない。

大学院の願書の提出期限が近づいてきても
志望理由が全然書けない……。

あれ、自分やりたいと思はずなのにな〜!
なんでだ!!!


そんな感じで何もかも手につかなくなった時に
絵を描くのだけは楽しくて
始めたのが絵日記のインスタだった。

2020518
とにかくとにかく
毎日
自分を自分で褒めて元気付けていこうと思う
🌝🌞
✒︎えにっきはじめることにした!✒︎

2020年5月19日
なんか、なんだか、
やりたいと思って始めたはずのことでも、
気づいたらやる気なくなってたりする〜。

2020520
やらなきゃいけないとおもっとるのか
やりたいとおもっとるのか
やりたいとおもおうとしとったんか
ちょっとよくわからん!

自分の中のモヤモヤと向き合いながら
絵日記を描いてるうちに

「自分は院にいって心理学を勉強して
臨床心理士になりたい」
と思おうとしていただけだったのかも?

あれ、こんな悩みながらじゃないと
志望理由を書けないところにお金を払って
2年間、通わなくてもいいんじゃない…?


とようやく気がついた。

【コロナ2期】小学生のときの夢を思い出す

時間は余るほどあったので、

「本当にしたいことなんだったっけ?」
「やってて楽しいことってなんだっけ?」
「どんな生活が理想なんだっけ?」
「どんな自分になっていたいんだっけ?」

と1日中ずーーーーと考えてた。

2020525
なんかいろんなこと自分で
決めてきたつもりだったけど
実は、なんとなく流されてただけだったりして〜
🌝
って思ったりする。

自分で先生になりたいと思って、
自分で教育学部を選んで
自分で進んできたし

自分で臨床心理士になりたいと思って、
自分で院に進学すると決めた。

と思ってたけど
そうじゃなかったかも。

「自分は絵そんなに上手くないし」
と周りと比べて、諦めて、
なんとなく無難だと思われる選択をしてきただけ
だったのかもしれないな〜。

本当にやってみたいのも、
きっと一番わくわくするのも、
実は小学生の時からイラストレーターだったな〜。

「だったら一回挑戦してみてもいいのかもしれない!」
という結論に、10年かけて
やっとのことで辿り着きました。

おまけ▶︎何が好機になるかわからない

前述した通り、大学4回生の1年間は
コロナ真っ只中だったので
目標にしていた全国大会が開催されないことが決まり
かろうじて、開催される予定だった中四国決勝も
試合の1週間前に中止になりました。

(しかも前年、連覇していた中四国決勝で敗れ
今年こそは!という思い入れもかなり強かった)

私たちにとったら最後の試合だとか、
今までどれだけコロナ期間もめげずに
練習していたかとか、
そんなこと全く関係なく、
びっくりするくらい、あっけなく。

そのときの引退ブログというものを読み返したら、
あの時のリアルな気持ちを思い出した〜。

(ラクロス部は何かとブログリレーをしてて
コートネームというものがあり、私はよしだった)

4年間、大学生活の中心だったラクロスを
そんな感じで終わらせてきたコロナに対して
「なんだこいつ!!!この4年間なんやったんや!!!」
と思ってたけど、
コロナによって半強制的にラクロスから離れて、
あのタイミングで将来のことを考えていなかったら、
私はきっと今頃、日高村でイラストレーターは
してなかっただろうなと思います。

コロナによって間違いなく苦しんで、
意味わからんくらい泣いたけど
何がいつ自分にとって好機になるかは、
わからないもんです〜🌞


とても長くなったけど、
コロナ禍にとことん自分と向き合ったことで
小学生の時の将来の夢が
「イラストレーター」だったことを
思い出した話の記録!


次回は、新卒で日高村に移住をしたワケ2個目
「川がきれいなところに住みたかったから」

について、またまたゆるーく書きます💐

仁淀川!

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