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奇跡

15年6ヶ月28日3時間58分15秒。
それが、彼女を飼った時に告げられた“余命”だった。

数十年前まで、ペットの殺処分が社会問題になっていた。
好きで飼ったはずなのに、なぜ愛情を失ってしまうのか?――それは、共に過ごす時間が“限られたもの”であることを、飼い主が忘れてしまうからだ。
そうした動物愛護協会の指針により、全ての飼い主に、ペットの「余命告知」が義務づけられた。
残り時間を自覚させることで、ペットへの愛情が高まるというわけだ。

AIの発達により、現在では正確な寿命の算出が可能になった。ただし、人への応用は倫理面から見送られていた。
彼女がいなくなった後、私はどのくらい生きなければならないのだろうか――。
彼女の余命日時が、心に重くのしかかった。


今、そのタイムリミットが迫っていた。
来週の火曜日、22時36分41秒。彼女はこの世から旅立つ。
食べなくなってから4日、とはよく言ったものだ。今日から、彼女の食欲は確実に落ちていた。体力が目に見えて失われていく中、気力だけは最後まで保とうとする姿が愛おしかった。
その表情にはむしろ、高貴さすら感じられた。


無情にも、時は1秒たりとも止まることなく、その日はやってきた。
当直開けで、ずっと彼女のそばにいられる。
誰にも邪魔されず、静かにその時を迎えようと決めていた。
何をしなくてもいい。ただ、そばにいたかった。命の砂時計を止められないのなら、その落ちゆく砂のひと粒ひと粒を、ひとつ残らずこの目で見届けたかった。それが、15年半、私を支えてくれた彼女に、最後にできる恩返しだと思った。

彼女はお気に入りのベッドに、静かに横たわっていた。艶々だった自慢の毛は、もう一足先に旅立ったかのように、生気を失っていた。それでも、与えられた命を生き切ろうとする姿は美しかった。

ただひたすら、その時を待つ。
残酷なようだが、いつ別れが訪れるかわからないまま弱りゆく姿を見守るよりも、覚悟を持って見送れるほうが幸せなような気がした。

ふいに、彼女が立ち上がった。
どこにそんな力が残っていたんだと思うほどの足どりで、一歩ずつ私のほうへと近づいてくる。
慌てて駆け寄り、彼女に手を伸ばした。

そのとき、スマホの着信音が無機質に鳴り響いた。
不安が胸をよぎる。
見慣れた表示が画面に映し出されたのを見て、私は自分の運命を呪った。
「先生、急患です! 今すぐ向かってください!」
なぜだ。なぜ、今なんだ――。
時計を見る。21時10分。
今出れば、もう二度と生きている彼女には会えない。
正直、その患者の命を犠牲にしてもいいとさえ思った。医師失格だ。それでもいいから、彼女の飼い主失格だけにはなりたくなかった。
しかし……行かないわけにはいかない。
「そのとき」がわかる時代になっても、そばにいることができないとは。何のための技術の発達なのか。何のための余命宣告なのか。

立ちすくむ彼女を抱きかかえ、再びベッドに寝かせた。
いつものように、人差し指で鼻をポンと触る。いつものような瑞々しさはなく、まるでぬいぐるみのそれのようだった。
――ごめん。
彼女の身体に手を置く。これが、最後だ。
――ごめん。
もう一度、彼女をそっと抱き締めた。
――ありがとう。今まで、ありがとう。
彼女の目が、涙で濡れていた。
私は身体を起こし、立ち上がった。
もう行かなければ。急いで身支度を整えた。
玄関へ向かう途中、彼女の最期を目に焼き付けようとしたけれど、視界が歪んでうまくいかなかった。
――ごめん。
扉を開けると、いつもと変わらぬ街の騒音がなだれ込んできた。
バタンという無情な音が響き、扉が閉まった。
彼女と私の世界が、永遠に分断された瞬間だった。


手術室は相変わらず戦場のようだった。
高速道路で玉突き事故があり、重症患者が複数いた。
予断を許さない状況で、時間との闘いだった。

ふと時計に目をやる。22時37分――。

……彼女は、たった今、旅立った。たった1人で。

見送ってやれなかった。 
そばにいてやれなかった。
視界が滲みそうになった瞬間、モニターのアラーム音がけたたましく鳴り響いた。
「先生、出血が止まりません!」
まずい。
「サチュレーション、低下してます!」
これは長期戦になりそうだ。
目の前の患者に集中しなければ……。
メスを握る手に、力を入れ直した。
汗か涙かわからないものが、顔を伝っていった。


手術が終わったのは4時間後だった。
幸い、どの患者も一命を取り留めた。
深夜2時。
もう、彼女は完全に冷たくなっているだろう。
こんなことなら、動物病院か友人に預ければよかった。彼女を、たった1人で逝かせてしまった。
だが、あの時間から誰かに預けるなど、到底無理な話だった。

今日、私は確かに患者を救った。
しかし、15年半連れ添った彼女の最期を、私は見送れなかった。
――何をしているんだ。
助かった命と旅立った命の狭間で、自分の存在意義が揺らいでいった。

重い身体を引きずって、何とか家にたどり着いた。
彼女と私を隔てた扉が、冷たく待っていた。
ガチャリという音がやけに大きく響く。
電気をつけ、彼女の元へと向かう。
――ごめん。
さっきと同じように、彼女は横たわっていた。
――ごめん。
冷たくなった彼女の身体に、そっと触れた。

「!」
なぜだ?!
「……生きてる!」
彼女は、まだ温かかった。そして、うっすらと目を開けた。
――待ってたの。
その目が語りかけてくる。
私は彼女を抱き寄せた。小さな手を握る。
数回、荒い呼吸をくり返した後、彼女は大きく息を吐いた。そして、再び息を吸うことはなかった。
握りしめた手の重みが、私の手に沈み込んでいく。

喉を切り裂くような悲鳴が、夜の闇に響いた。
それが自分の声だったと、ぼんやりした頭で気づいたのは、窓に朝日が薄く差し込む頃だった。

朝が来ても、私の世界は暗いままだった。
ただ、この腕の中に彼女がいることだけが、私の救いだった。
彼女の強い想いが、運命すらも変えたのだろうか。
これを奇跡と呼ばずに、何を奇跡と言おう。
私はもう一度、彼女の小さな手をそっと握った。
冷たくなった手のぬくもりを、いつまでも探していた。


* * * * *

「博士、管理番号No.1596432のペットの寿命が延長されました。プログラムのバグでしょうか」
「いや、私が例外的に延長させたんだ」
「こんな例外を認めていいんですか?」
「まあ、たまにはいいだろう」
「しかし……」
助手の言い分ももっともだ。だが、完璧なプログラムを追究するためには、例外のデータの収集も必要になる。今回は飼い主とペット、双方の幸せのために、初めて例外措置を取った。

どうせ彼らは、常に監視されていることすら気づかないだろう。まして、奇跡が作られたものであるなど、想像するはずもない。
「おい、No.1596432の今回の経緯、しっかり記録に残しておいてくれよ。不幸なペットをなくすための、大事なデータだからな」

この物語はフィクションです。実在の団体とは無関係です。

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★Instagramの文芸イベント(お題:ペット)に投稿した作品です。note初投稿作品。

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