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生成AI私論① 「絵そのもの」は手段と分離して評価できるか


生成AIイラストの価値をめぐるTwitterの世論は百家争鳴だけども、今日、以下のようなツイートがTLに流れてきた。

この論法は、創作物を鑑賞するときの労力主義、努力至上主義的な視点を非難している。「見かけが同じものが、創作者の苦労の大小でどうして価値が変わるのか」と。これ自体は、確かに真っ当な指摘だ。評価されるべき作品には労力がかかることが多いのが一般的な認識で、労力がかかる作品がより評価されるべきという規範は転倒している。

一方、この論法もまた、問題をかかえている。この論法を下支えしているのは、「見かけの区別がつかないものに、見かけ以外の理由から実質的な価値の違いを見出すことは誤りだ」という理論である。これは別人のツイートになるが、その側面がよりよく示されている。

より突っ込めば、「見かけの区別もつかないような人が違いを語るのはスノッブだ」と言う主張だ。ラーメンの区別もつきもしない味音痴が、やれ国産野菜だ、やれ無添加だ、やれ自家製麺だと、店の「こだわり」や「労力」をもてはやすのは知識に溺れたスノビズムである、と。

しかし、この理論は現代美術史の発展をまったく踏まえていない、異端な、はっきり言えばナンセンスな理論武装にすぎない。それどころか、現代美術と美術鑑賞の追及してきた価値をスポイルしてしまう恐れがある。筆者は2022年のNovelAIのリリース時から界隈に生息しており、思想的には強いAI推進派ではあるが、同時に現代美術のにわか愛好家として、この理論の難点は必ず指摘しておきたい。

現代美術の鑑賞対象は、作品の見かけそのものー表象ーだけではない。作者がその作品を創造した文脈や、背景、手法といったものが提示されて、はじめて創作物として鑑賞の対象になる。19世紀に写真技術が発展してからというもの、作者も批評家も、それを意識し続けてきた。たとえば、マルセル・デュシャンの「泉」は、持ち寄り自由の彫刻展に既製品の小便器を持ち込んだこと、既製品をまなざす視点を変化させて異なる文脈に置くことで美術界の既存の価値判断を揺るがそうとした、という背景を踏まえなければ、望ましい鑑賞の仕方はできない。


デュシャン 『泉』


ジャクソン・ボロックのシンフォニーNo.5もそう。より最近の作品では、「サルの自撮り」は、サルが人間のように自撮りをした、という制作経緯があってこその傑作だ。サルが実際に自撮りした(本物の)サルの自撮りと、人間の手であたかもサルが自撮りしたかのように見せかけて作った「サルの自撮り」を並べて見せて、制作過程を伏せて、「見かけは一緒だから、実質的な価値は同じだ」とうそぶくのは、美術鑑賞の基礎をおさえていない暴論である。


サルの自撮り



現代美術の価値は、見かけだけでは判断できない。もちろん、この価値は「経済的価値」の意味ではないし、一方が他方に勝るといった一元的に比較できるものではない。我々、鑑賞者の心がどのように動かされるか、という基準のことだ。
(注釈)わざわざ言及するまでもないが、筆者は経済的な詐欺の話をしていないし、作者の格や名声によって美術品の取引価格を変えるべきだ、と言いたいわけではない。
「絵そのもの」だけを捉える鑑賞態度は、「そのもの」に付随する労力を過度に捉える鑑賞態度と同様、不健全だ。鑑賞者が、そのイラストがAIによるものか、人間の手書きによるものかの制作過程によって心の動かされ様が異なることは、何ら非難されるべきことではない。

にわか現代美術愛好家の稚拙な筆ではあるが、以上、ごく簡単に上記ツイートのよってたつ理論について反駁を行った。なお、私自身は、「労力主義」的なものへの批判の姿勢は、現ツイートと立場を一致している。
筆者個人の展望は、イラストの美術的価値よりも道具的価値に注目して、道具的価値の同一性を議論した方が筋道が良いように思う。また、再三述べたとおり、AI生成物と人間の描いたイラストで、鑑賞者の心の動かされ方は異なれども、どちらかが優れているというわけではない。安直に、人間の描いた方が「価値」があるーこの「価値」の定義はあえて曖昧にしておくーと見る態度もまた、誤りと言えるだろう。


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