見出し画像

仙台紀行

仙台に遊びに行くのに、太宰治の「惜別(せきべつ)」を持ってきた。あらすじに「仙台留学時代の若き日の魯迅と日本人学生とのこころ暖まる交遊の描写を通して、日中戦争という暗く不幸な時代に日中相互理解を訴えた」とある。

魯迅の像は大学図書館の前にあったのに、若い頃は彼と仙台の関わりに興味がなかった。

年を取ることの醍醐味は「歴史」にある。自分が生きた日々が、次第に風化し、必要なものは沈殿して歴史になる。踏みしめる土地が、かつて生きた人々の歴史の層の上に成り立っていたことを知る。街を見る目がどんどん変わる。知らない時代の片鱗が、あちこち見え隠れする。

惜別を読み進める。東北に住む高齢の医者が、かつて仙台医専(今の東北大学医学部の前身)で魯迅と共にした学生時代を思い出すという仕立ての物語だ。史実に基づき、作者の想像で欠けた部分を補ったフィクション。今でいう原田マハ的な小説だろうか。魯迅のことをこれっぽっちも知らないので、どう展開するのかとジンジャーティー片手に読み進める。店内から徐々に客が去っていく。

このまま一番町のアーケード内のカフェモーツァルトに行きましょう。片平キャンパスを横目に、途中通り雨に降られながらもなんとかサンモール一番町までたどり着く。1気楽な気持ちで広いアーケードを闊歩する。ひっそり現れる階段を上がるとそこは、アーケードの喧騒とは無縁の詩的な空間。当時仙台で珍しかったカフェ文化を根付かせようと、ヨーロッパの香りをひっさげたオーナーがここに店を構えたのは1970年代のこと。今日まで、少しずつ店内を変えつつ、その精神性は守り、ここまで街の人々に愛されてきた。オーナーの抜群の時代感覚によって今もモダンな空気が保たれている。

土曜の夜は客が少ない。かたい椅子に腰掛け、眠気覚ましにモーツァルトブレンドを注文。惜別を読み進める。やや説明過多な箇所があり、ちょっと気が逸れる。しかし主人公が仙台の華やかさに浮き足立つ気持ちや、魯迅の関心が医学から文芸へと移っていく描写は、自分と重なるようで心が揺さぶられる。

「ひとの話に依れば後年、魯迅自身も仙台時代の追憶を書き、それにもやはり、その所謂「幻燈事件」に依って医学から文芸に転身するようになったと確言しているそうであるが、それはあの人が、何かの都合で、自分の過去を四捨五入し簡明に整理しようとして書いたのではなかろうか。人間の歴史というものは、たびたびそのように要領よく編み直されて伝えなければならぬ場合があるらしい。」(新潮文庫/惜別/p357)

「人の心の転機は、ほかの人には勿論わからないし、また、その御本人にも、はっきりわかっていないものではなかろうか。多くの場合、人は、いつのまにやら自分の体内に異った血が流れているのに気附いて、愕然とするものではあるまいか。」「彼は、あの幻燈を見て、急に文芸に志したのでは決してなく、一言でいえば、彼は、文芸を前から好きだったのである。」(p358)

期待以上の内容にホクホクしつつ、あとがきを読む。どうやら惜別は、内閣情報局と文学報告会の依嘱を受け書き下ろした太宰唯一の国策小説であるらしい。太宰としては、若き日の魯迅を正しく慈しんで書き、中国の若い知識人が読んで「日本に我々の理解者がいる」と思わせるような日中友好の意図を込めた作品のようだ。

カフェを出て定禅寺通りへ向かう。アーケード内の書店に立ち寄り、惜別への興奮冷めやらぬままに、太宰か魯迅にまつわる本がないかと物色する。「仙台学」なるコーナーに、「太宰治と仙台」という地元新聞社が編纂した本がある。太宰は惜別の執筆のために気負って河北新報を訪れたこともあり、仙台にはゆかりがあるようだ。惜別で描かれていた魯迅の下宿の1つは、米ヶ袋にあるらしい。モノクロ写真が載っている。ん?こ、これは、かつて片平丁通りにせり出すように建っていたボロ家だ。つい数年前までそんな歴史ある建物が残っていたのに、素通りしてカフェでスコーンをむさぼり食べていたなんて。惜しいことをしてしまった。時間は待ってはくれない。この小さな後悔もまた、仙台を彩る個人的な歴史になっていく。

この街で学生時代を過ごし、ひととき戻ってきて、太宰の書いた魯迅と出会い、街の別の顔を知る。魯迅への深い洞察と太宰自身の文芸論によって、ここで自分自身の本心と出会い直すことも、必然のように思われる。生きていようが故人であろうが、必要な人と出会うべきタイミングを逸することなどない。すべてはおさまるべきところにおさまる。本は、読むべき時期に手元へ勝手に寄ってくる。人生はどうしようもなく退屈で、生きても生きても虚無感だけが積み上がる。未来に希望など持てはしない。それでも常に肩の力を抜いて好奇心に従えば、ところどころに先人たちが残した宝石が埋まっている。探し切れはしない。死ぬまでこうした小さな愉しみは尽きることがない。




いいなと思ったら応援しよう!