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<孤独>に抗する消費者③

 どうも小池です。最後に、消費者が<孤独>に対抗することのできる道について考察します。前回まで確認したように、現代日本において<孤独>の二面性、すなわち「孤独推奨言説」と「孤独問題言説」があり、それが1970年代以降の消費社会化の進展にともなうかたちで発展してきた、というのが私の見立てです。それは”ひとり”を楽しむことができる人と、”ひとり”を苦しむ人との間の溝が深まってきたということです。そのような社会を前にして、私たち消費者がとりうべき道を探ろうというのが今回の趣旨です。

 ここで参照したいのが消費社会に対する二つの捉え方です。社会学者・北田暁大(2005)が表した「消費社会的アイロニズム」と「消費社会的シニシズム」です。北田は、「消費社会的アイロニズム」を、1970年代後半から活躍するコピーライター糸井重里に代表される「抵抗としての無反省」として説明します。他方で、北田は「消費社会的シニシズム」を「抵抗としての無反省」として説明します。ここでのキイワードは<反省>です。

 流れを簡潔にまとめます。1960年代後半を中心に盛り上がりを見せた学生運動においてしばしば見られた「総括」というある種の儀式的反省は、暴行を伴うリンチへと発展し、あさま山荘事件や山岳ベース事件といった戦後史に残る事件へと至りました。そこでの<反省>には以下のような特徴がありました。

自分の過去の行動が誤っていたのか、誤っていたとしてどのような点で誤っていたのか、 私たちは何らかの規範や思想、ル—ルに照らし合わせて思考する。準拠枠組みなき反省などというのは、語義矛盾にほかならない。ところが、連合赤軍の総括要求とは、そうした不可能であるしかない、準拠枠組みなき無限の反省を要請するものだったのである。

『嗤う日本の「ナショナリズム」』(北田暁大 2005:  29)

 彼らは、とにかく自分たちの言動を省みて、どこがダメで、どのように改善するのかをメンバーの前で誓います。しかし、その判断基準が明確でないため、ダメなところを探すのが目的化してしまうのです。そうして行き着いた先が、リンチであるというのは何となく想像がつきますね。そして上記のような過剰な反省様式に対する<反省>として、糸井重里に代表される「抵抗としての無反省」が登場したのです。北田は糸井重里について以下のように評します。

記号を操作するコピ—ライタ—として消費社会のど真ん中に位置していながら、「都会的センス」を煽る消費社会の語彙体系のなかで否定される「庶民」を 「守ってあげる」、いや、慎ましい中流幻想のなかに幸福を見いだす人びとを「守ってあげる」ためにこそ、消費社会の中心にあえて位置し続けること。

同上(北田暁大 2005:  75)

 このように糸井重里に代表される70年代後半から80年代にいたる消費社会化の過程において、ただ消費を楽しむ快楽的姿勢だけではなく、ある種の倫理的姿勢が備わっていたのです。しかし北田の見立てでは、「抵抗としての無反省」が次第に「抵抗としての無反省」へと移り変わることになります。その頽落の過程は省きますが、行き着く先は、「消費社会的シニシズム」です。つまり、過剰な反省(総括)に対する”反省”として、豊かな消費者生活の中で"無意味さ"に楽しみを見出すのですが(=消費社会的アイロニズム)、豊かな消費生活が所与の前提となる中で、欲望赴くままの”商品選択の自由”をこそ至上価値とする消費社会的シニシズムへと至ります。そして北田はその線上に<2ちゃんねる的なもの>を位置付けています。

 もう少し噛み砕くと、”過剰な反省”から、”過剰な反省に対する無反省”へ、そして”ただの無反省”へ。それは果たしてどのような社会をつくり上げてきたのでしょうか。社会学者の竹内洋の言葉を引くならば、「三島の死後、『無機質』で『からっぽな』『二ュ—トラルな』、『抜け目がない』『経済大国』そして、バブル経済に人々は踊ったのである」(竹内 2011: 363)。豊かな消費生活は人々を幸福にするはずでしたが、そこにあるのはただ空虚な一過性の多幸感に過ぎなかったのではないでしょうか。

 「消費社会的アイロニズム」と「消費社会的シニシズム」は時代制約的です。それぞれ特定の時代・社会において抽象化された思考様式であり、普遍化・一般化することはできません。つまり、現代日本を「消費社会的シニシズム」が支配していることを嘆いて、「消費社会的アイロニズム」に立ち返ることはできません。私たちは私たちの夢を見なければならないのです。

 先人たちは消費社会の到来に夢を見ました。それは商品選択の自由を通じた、前近代的な拘束(地縁や血縁、セクト)からの解放の夢です。今日の日本ではコンビニエンスストアが至るところにあり、ひとり暮らし用の住居に溢れており、かつて人々を縛りつけていた制約はお金さえあれば取っ払うことが容易となっています。しかし、お金を用いて<ひとり>になることを望む人々もいれば、お金がなくて<ひとり>にならざるをえない人々が生じ始めてきたことも確かです。つまりは積極的孤独と消極的孤独があるということです。それを踏まえずに十把一絡げに<孤独>の一言で何かを論ずるというのはバカのすることです。

 そこで消極的孤独に苦しむ消費者が辿ることのできる二つの夢を空想します。一つは、消費を通じた<つながり>の構築です。愛好家集団、ファンコミュニティ、シェアコミュニティなど、現実に存在しているものは多くあります。しかし、個人的には特定趣向を共有する狭いクラスターというのは好きではありません。構成員の資格化(e.g.費やしたお金・経験によるマウンティング)や、社会の分断化を促すことが目に見えているからです。そこで二つ目の夢が、消費者を辞めることです。モノを買うなということではありません。私たちは生産者になるのです。そして生産者の<つながり>は、現代日本において消極的孤独に苦しむ消費者を救いうる道であることを私は確信しています。

 ただマルクスに還れ、ということではありません。教条主義的マルクス主義(=スター二ズム)や新左翼(=セクト主義)といった過去のマルクス主義者の失敗を決して繰り返してはなりません。マルクスを一つのヒントにするにしても、私たちは私たちの社会をつくりあげていくことが重要です。そうしたときに、消費社会に対抗しうる”私たちの時代の生産社会”こそが求められていくと考えます。現代日本にはギグワーカーもいれば、フリーランスの人もいて、あらゆる仕方で生産(労働)活動が行われています。バラバラだからこそ、ともに生産する社会を目指すことを私は志向したいと思います。

 まとまりのない文章となりましたが、また改めて読みやすいかたちに直したものを出します。最近、『ラストマイル』という映画を観ました。あの映画に観られるように、バラバラな生産者(労働者)がどうしたら連帯できるか、ということは現代日本における課題になっているのだと思います。以上。


  • 『嗤う日本の「ナショナリズム」』北田暁大,2005,NHK出版.

  • 『革新幻想の戦後史』竹内洋,2011,中央公論新社.

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