あえて今、Mozilla Firefoxを使う選択を
自由だった時代
私はMozilla Firefoxを長年愛用しているヘビーユーザーです。使い始めておおよそ17年ほどになるでしょうか。Firefox 1.5の頃からずっとメインブラウザとして使用しています。
使い始めた頃はいろいろなブラウザが勃興している頃でした。おおよそ世界はIEとFirefoxの二強となり、それぞれから派生したブラウザやOperaのような独自エンジンを使ったブラウザなど、多様性で満ちていました。Windows版のSafariなんかもあった気がします。
あの頃のインターネットは今より遙かにずっと自由でした。
この記事を仕事中にこっそり書いている2023年2月、世界はほぼGoogle Chromeによって統一されています。かつては20%近いシェアがあったFirefoxはその見る影もなく、世界シェアでも5%ほどの存在になってしまいました。
新しい動きとしてBraveなども登場しており、注目されています。が、私にいわせればこんなものはBlinkの流れをくむGoogle Chromeの派生版に過ぎません。いわば与党政治家の息子が野党に鞍替えしたようなものです。
事実上Googleによる支配を甘んじて受けることになったインターネットですが、そうするとFirefoxが唯一の対抗馬のように見えます。が、実態はMozillaもGoogleから金をもらってなんとか生きながらえており、Googleの軍門に降っているようなものです。
とはいえ、Firefoxは他のChromium系ブラウザと違って独自のGeckoエンジンを採用している点で評価ができます。レンダリングエンジンはWebブラウザの中核をなす技術ですので、技術的な独自性を出すことは必ず意味があります。特に20年代以降のWebにおいてはレンダリングエンジンの違いというものはほぼなくなりつつあります(昔はIEとNetscapeで見え方が全然違うなんてことはざらでした)。そんな中においても独自性を維持していくことはいつか再びブラウザが乱立するような時代が来たときにきっと強みになるでしょう。
Firefox非対応のサービスたち
真に嘆くべきは、特に国内においてFirefoxのサポートを打ち切る愚行が蔓延っていることです。近々の例ではPayPay銀行やNHKプラスがFirefoxのサポートを打ち切りました。
確かに、Firefoxのユーザー数は本当にわずかであり対応するコストを考えるとサポート対象から外すことは一見すると経営的合理性があるように思えます。しかしながら、これほどまでにシェアが低下してもなおFirefoxはWeb標準のブラウザとして対応することが強く推奨されています。多くの「まともな」WebサービスはGoogle Chrome、Firefox、Microsoft Edge、Safariには必ず対応しているはずです。
裏を返せば、これらの4ブラウザに対応できるということはそれなりの技術力があるという保証であり、信頼性を高める意味があります。
PayPay銀行はふざけた名前こそしていますが、れっきとした我が国から営業許可を得た銀行業です。NHKプラスももちろん我が国唯一の公共放送たる日本放送協会が運営するサービスであり、その原資は受信料であることはいうまでもありません。
そうした公的サービスを提供する企業および団体が、Web標準であるFirefoxを切り捨てるという行為が許されていいのでしょうか?
銀行法の第一条にはこうあります。
条文でもいの一番に掲げられているとおり、銀行業は公共性を有した信用のある事業です。公共性を有するのであればWeb標準たるFirefoxに対応するべきでしょう。あくまで一企業が開発するブラウザであるGoogle ChromeとMozilla財団がオープンソース事業として開発しているFirefox、どちらが公共性(Public)を有しているでしょうか。
より悪質性が高いのはNHKでしょう。公共放送であるにも関わらず、特定のOSや特定のブラウザでしか視聴ができないのは甚だおかしいと言えます。国民にあまねく放送番組を提供する組織であるにもかかわらず、特定のブラウザをシェアが低いという理由(理由は明確には述べていませんが、おそらくシェアだと推定)で排斥することは許されません。
法文中に「・・・放送および受信の進歩発達に必要な業務を行い・・・」とあるにもかかわらず、進歩どころか技術的後退を目指し始めたNHKを強く糾弾するものであります。
これが許されるのであれば、日本国内において人口が少ない、住んでいる人たちが日本人ではないといった理由でNHKの放送が受信できない地域が存在してもよいということになります。当然、そんなことは許されません。
もちろんNHKプラスを通常の電波放送と同じに見なせないという事情もあるにしろ、そこは公共放送の矜持として取り組んでほしかった部分です。
自由なソフトウェア
タイトルでは「Firefox」を使えといわんばかりのことをいいましたが、これはGoogle Chromeやその他のOSを否定するものでありません。最も重要な権利は何人も自由なOS、自由なブラウザを選び取り、自由なインターネットを享受する権利を獲得することです。
例えば事務作業で使用するために支給されるPCがWindowsであることを否定はしません。Microsoft Officeを業務で使用する必要があるとか、社内のシステム連携の点からOSが絞られてしまうことはある程度仕方ないことです(が、これ自体も現代においては多くの業務アプリケーションがWebアプリケーションに対応しており、専用システムなどを除いてはOSを縛る理由にはなり得なくなってきています)。
一方でWebブラウザにおいてはもっと自由が認められてよいと思います。多くの場合にはEdgeや運がよければGoogle Chromeの使用が可能でしょう。しかしながら、FirefoxをインストールしようとすればIT部門から怒られることは必至です。
ですが、たかがWebブラウザなのですから、自由に使えるべきではないでしょうか。会社側のWebアプリケーションがChromeにしか対応していないのは会社の怠慢なのです。ちょっとした調べ物で事務用PCでネットを閲覧することは決して珍しことではありません。興味がない人はEdgeなりGoogle Chromeなりを使用すればいいです。が、Firefoxを使う権利を認めてはもらえないものなのでしょうか。
最もこの自由が尊重されるべきは教育現場であると考えています。GIGAスクール構想により我が国の未来を背負う子供たちにPCやタブレットコンピュータを与えるようになりました(余談ですが、パーソナルコンピューターの言葉の意味を考えればタブレットもパーソナルコンピューターの最たるものであるにもかかわらず、タブレットPCと呼ばなければならないのは、いかがなものでしょうか)。
しかしながらこのコンピュータは多くの場合、インストールできるソフトウェアやアプリケーションに強い制限がかかっていることは想像に難くありません。もちろん子供たちを有害なサービスから守るという点で必要なことではありますが、真の教育とは失敗や挑戦から学ぶことにあります。怪しげなフィルタソフトや学校の統制からオープンはインターネットに解き放たれた子供たちが有害な情報に触れて金銭をだまし取られたり犯罪に加担することになっているのは今まさにこの国で起きていることでしょう。
まずは子供たちに自由なブラウザを選び取って使わせることが、ICT教育の第一歩として必要です。自らの判断でソフトウェアを取捨選択し、より便利に使いこなすために試行錯誤し調べることはとても重要です。学校の先生に言われるがままにマウスをクリックして決められた文言を入力することの何がICT教育なのでしょうか。今自らが置かれている環境に疑問を持ち、様々な立場や考え方を理解することがこれからの人たちに求められる能力なのです。
ブラウザも選べない人たちは、何も選べない
そうはいったところで、Firefoxのシェアが今後爆発的に増加することはなく、Google Chromeの一強状態は全世界で続いていくことでしょう。マジョリティに盲目に付き従って生きていくのは簡単で楽ですが、それは哀れな大衆の一人に成り下がるということです。おそらくこんな訳の分からない記事を読んでいるあなたにはインテリゲンチャ(知識階級、有識者)としての素質があるでしょう。インテリゲンチャは誰かに付き従う盲者ではなく、人びとを導き社会に新たな価値観を生み出す存在です。
たかだかWebブラウザの有り様の話ではありますが、たとえ道具一つソフトウェア一つとっても自分の確たる判断と決心で選び取るのと言われるがままに何となく選んだり使うのではまるで意味合いが変わってきます。
現代においては人は決心(物事をしようと、強く心をきめること。覚悟をきめること。決意。)する根拠を他者に求めます。インフルエンサーの勧める商品を購入し、企業の宣伝文句を鵜呑みにし、幾重ものフィルタを通した情報を真実と信じています。人生は選択の連続といいますが、果たしてその選択は本当にあなたの意思で行ったものなのでしょうか?マッチングアプリで出会った相手と結婚した人は、真の意味で自分の判断で結婚相手を選んだのでしょうか?エンジニアが書いたプログラムに従って一定の条件に適合した相手がレコメンドとして表示されたに過ぎないとも言えます。
回転寿司の醤油差しを舐め回した子供を糾弾するあなたの意思は、本当にあなたの意思なのでしょうか?インフルエンサーやマスメディアがそう言っているから、あなたもそう思うだけなのではないでしょうか?「SNSの意見」というものは本当に存在するのでしょうか?3万リツイートされたツイートは10リツイートされた意見より正しいと誰が決めたのでしょうか?
これら我々が決心した行動に、果たして本当に「意思」は介在するのでしょうか?
最後に
私たちは自らの意思で選択肢を選び取る力を失いつつあります。大衆に流され、大企業や資本家に操作され、誰かにとって都合よく書き換えられたストーリーを信じ、まるで自らの選択で自らの人生を生きているように誤認させられています。
しかし、Webブラウザすら自分で選べない人たちが自分の人生を選択して生きているとは到底思えません。それは選択ではなく服従であり、思考の放棄です。あなた自信が一人の個として存在する人間であると自信を持って言うために、まずは人と違うブラウザを使ってみませんか。
たかがWebブラウザ如きで人間としての価値まで否定する、こんな記事の内容を真に受けている人がいるとすれば非常に憂慮すべきことですが、きっとそんな人はいないと私は信じたいと思います。
願わくばこんな訳の分からない記事をここまで読んでいる異常者諸君が、自らの決心で人生を選択することができるよう祈念する次第です。