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自分史〜高校時代の前に

高校時代を語る前に、あまり思い出したくない中学時代のことから考えたことを少し・・・・

福岡の中学に通っていたのに、父の仕事の転勤で中2の夏に兵庫県に転校した。転校先ではいじめられた。理由は「本州の出身ではない人間は外人」だから。

50を過ぎた今となっては「なんて理不尽で馬鹿げた子供のいじめなんだ」と思うけど当時の私には深刻だった。自殺を考えるほど深刻ではなかったけど、「なぜ悪い子もとしてない、他の土地から来ただけと言う理由でいじめられなければならないのだろう」とずっと考えていた。結局中2の冬に通った塾が救ってくれたのだけど・・

この経験から「いじめ」がなくならないのは何故だろう、と考え続けることになった。

「いじめ」の定義を「子供同士の仲間はずれをする行為」としないで広義のものと考えた場合、個々人の人間関係のいじめや会社やコミュニティでのいじめ、パワハラやセクハラ、DVや子供の虐待、引いては町や市、都府県や国同士の争いも「いじめ」になるように思う。

そう考えるとよくもまぁこの世の中いじめだらけだと感心するほど。なぜに人はいじめや争いをする?

その答えの一つは敬愛する聖飢魔IIの「デーモン閣下」の著書「我は求め訴えたり」にあると思う。

「人類皆性悪」だから。

所詮人間も動物。弱いものを叩く!と言う習性があるはず。野生動物を見ると百獣の王だってハイエナだって強いとされる肉食獣も餌となる草食動物の「子供」や「足の遅い者」と言った弱い存在をターゲットにして捕食し生き延びて行く・・・

人間だってそう。この70億を超える人々の中で自分の存在をアピールし生きて行くためには自分よりも劣る、弱い存在を叩き少しでも優位な立場に立とうとするのでは?そう考えるといじめがなくならないのはわかる気がする

でだ、最近の出来事でその考えにもう一つ加わることとなった。それはある絵本を読んだから。その絵本はキングコング西野あきひろさんの「オルゴールワールド」。

「好き」や「愛する」と言う感情があるから人間は憎しみという感情が生まれるという考え方。これは原案があの「タモリさん」らしい。

なるほどなぁ、「好き」という感情がない生き物にはその反対の「憎い」がないのかもしれない。一時期、「全員を好きになれば」と考えていた事があったがこれだけ人が増えるとやっぱり自分とは波長の合わない人が出てくるんだなぁ。

性悪と好き、これをうまく操る理性・・・・そんなの持てるのかな?


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