見出し画像

エディ・ヴェダーが着ていた "I Love Grunge" Tシャツ

90年代を語る上で忘れられない出来事はいくつかあります。
1995年1月17日、朝、出勤前にテレビをつけるととんでもない光景が目に飛び込んできた。
高速道路の高架が倒れ道路が横倒しになっている姿。街のあらゆるところから立ち上がる煙。ヘリコプターで高い所から映し出されたその映像に合わせてレポートするアナウンサーの声はゆっくり話しているにも関わらずヒステリックに聴こえました。
阪神淡路大震災です。
多くの人の命が亡くなりました。その地震とともに私の約100枚のアナログレコードが瓦礫に埋もれてしまったのです。あずけていたごく近しい知人の家が全壊したのでした。
当時勤めていたアパレル会社のオープンしたばかりの神戸のお店が入ったビルも崩れ、その新店舗に勤務していたスタッフ数名も住むところを失ったりしました。半年前までは自分が借りていたマンションも大阪にありましたし、多くの友人、知人が罹災して心配なことも多く、仕事では大阪の店舗やつぶれた神戸の店舗への対応あり、東京にいながらにして慌ただしい日が続いていました。

そんな中、一ヶ月が過ぎた頃、Peal Jam が来日した。日本でライブをするために。その時のPeal Jam、アメリカ本国内ではコンサートのチケットを独占的に販売するチケットマスターの手数料が高額であることがコンサートのチケットの高騰を招いていることから手数料を下げることを要求し、それをチケットマスター側が許容しなかったため、アメリカ国内でのツアー活動を停止している状態でした。詳しくは「チケットマスター 闘争」とググってみてください。
そのような状況での来日公演だったので、本国ではこんな皮肉も語られたと聞きます。「パール・ジャムを観たかったら今からでも日本に行けばいい。例え後の方の席しか取れなくても大丈夫。周りはみんなあなたより背が低いから(よく観える)」

そのころの私は社会人5年目、東京に出て来て2年目で、お金も時間もなかったのです。関西の大学に行っていたので、就職は大阪でした。最初の会社にきっちり3年勤め、転職を機会に転職先の会社で東京の本社によばれたのですが、会社の方もまだ転職してきた25歳そこいらの若造が使えるかどうかを見極める必要があったのでしょう。3月末に東京へ出て来きたのは良いのですが半年は出張扱いで会社の隣にある社宅のアパートに住まわされ、大阪で借りていたマンションはそのまま借りたままだったのです。
まぁ、そのかわりに月に一度は大阪のマンションに帰るため用の新幹線の回数券が支給され、月イチで大阪に戻るという生活でした。その東京ー新大阪間の新幹線での行き帰りによく聴いていたのが、パール・ジャムのアトランタでのライブのブート盤でした。
大阪から東京に戻る新幹線の車窓から夕日に赤く染まった故郷の川を見ることで、自分自身が存在していることを実感するような、そんな頃でした。

この動画のレジュメを書いていたのが、2020年の2月20日なので、本当に偶然ぴったり25年前のこと、18時くらいに品川の港南口にあったオフィスを出て九段下に着いたのがジャスト19時の開演時刻。
武道館のスタンドに飛び入った時、流れて来たのが1曲目の”rerease”だった。曲の途中で会場の係員に座席まで誘導されながらもゆっくりと流れるその曲に、新幹線の窓から眺めた景色とその時の感情が呼び起こされました。ものすごいスピードで移動しているにもかかわらず、遠く景色を眺めていれば目に入るその景色はゆっくりと変わっていくだけ、そんな時に感じた自分自身の存在、それは生きていることの実感でもあったのです。

パール・ジャムのこの日のライブはボーカルのエディ・ヴェダーのテンションは高く、一種の悲壮感みたいなものさえ漂っている感じでした。先に述べた本国でのライブ活動が停止していたこともあったのかもしれませんし、ある意味同胞であったカート・コバーンの死によって世代の代弁者たる役割を一気に引き受けることになった立場への思いもあったのかもしれません。それくらいパール・ジャムはアメリカでは注目され、実際売れていたバンドだったのです。このころのエディは眉間に深い皺が刻まれた苦悩の表情を浮かべているそんなイメージなのです。

今回紹介するTシャツはそのころのエディが着用していた、一見カワイイプリントの入ったTシャツです。
Tシャツにかかれたメッセージと言う意味では『I LOVE ◯◯』で、デザインとしてはLOVEの部分がハートマークになっていて、4文字を四角い配置になっているという、デザインとしてはもう世界的な定番とも言えるものです。知る限りNYと入るものに発して、今やNYの部分が世界中のご当地に置き換えられたTシャツ、ありますよね。
ですが、このTシャツのポイントはこのI LOVE ◯◯デザインが一行にプリントされていることと、Tシャツの地が黒というところでしょう。

91〜92年のころ、シアトル出身でグランジというジャンルでくくられてて、アメリカ本国で Peal Jam は Nirvana に並ぶというかセールス的にはこ Nirvana 以上であったことからライバル的な構図が当人達とは別のところで作られていたと思います。
本当は演っている音がかなり違うので、本人達からしたら比較されるのもうざったい話しだったんだと思いますが、カート・コバーンは特に自分のやっていること、パンクロックやオルタナティブなロック、反メジャーに強いこだわりがあったと思うので、どちらかというと70年代から続くアメリカのトラディショナルなロックの音に近い Peal Jam は自分達とは異なるという文脈でその音をこき下ろしてしたりすることがあって、メディアも面白おかしく取り上げて、当時はかなり盛り上がったりしたんでしょうね。そんな流れもあって、カートが ”gurange is dead(グランジは死んだ)" なんてTシャツを着て写真に収まったりしたもんだから、エディ・ヴェダーとしては自分達をこき下ろしたカートへのアンサーの意味も込めて黒地のTシャツに一行で "I LOVE GRANGE" と書かれたTシャツを選んだんだと思います。"grunge is dead" は黒地に白抜き文字で書かれたTシャツですから。

そういうTシャツに潜むストーリーを想像するのも楽しいのですが、そんなのを抜きにしても配色といい、メッセージといいTシャツのデザインとしてのクォリティは高いと思います。
販売されていることを知って当時は慌てて買いに行きました。
確か、渋谷の宇田川町にあったブート盤のお店だったと思います。もしかしたら、前回までと同様、秋葉原のディスクユニオンさんだったかもしれませんが、エディ着用、パール・ジャム、オルタナ系とうことで宇田川町だったんじゃないかと思います。
まぁ、このTシャツも第一回目に紹介したデイヴ・グロールのWool Tシャツと並んで大好きなTシャツで、私の宝物の一つです。

ということで、95年は震災からスタートした大変な年だったんですけれど、それだけに終わらなかった年でもあります。その辺りも含め、次回はこの90年代に購入したTシャツシーズンの最終回となります。

ここからオマケとイラストになります。(ゴメンなさい有料にしています)

ここから先は

964字 / 2画像

¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?