見慣れた渋谷が、知らない私を連れてきた
イルミネーションより、ずっと夜景のほうが好き。
あなたを楽しませますよと意気込むエンターテイメントより、生きている人の無数のストーリーが後ろにある光の粒が好き。
そんな私がずっと行きたいと思っていた場所があります。
それは、渋谷スカイ。
渋谷駅直結の地上230メートルの展望台。そこから見える夕焼けと夜景に焦がれていました。
平日に美しい景色を1人で眺めてたそがれることは、私にとっては至極の贅沢です。何も考えずに感覚だけで過ごす時間のその孤独に、夜景ほど馴染むものはないのです。沢山の人がうごめく街で、その喧騒を感じながらひとりきりでいること。人間の気配を感じながら誰とも一緒にいない自由が、自分という輪郭を浮かび上がらせてくる気がしました。
渋谷なんて、いつもどこか下水の匂いがして、若さや憂いや混沌が入り混じった街だと思っていました。働きに出るまで全然好きではなかったし、正直今でも好きとは言えない私がいます。結局のところは、用事があるから雑踏を踏み分けているだけでした。
でもその上空には、とんでもなく自由な孤独がありました。それは満員電車の中で感じるあの息苦しい1人の戦士でいる虚しさとは違います。このガラス張りの世界でミニチュアのように生きる自分を、もうひとりの自分が広い場所に押し上げてくれるような。目の前にあるものを一度全て取っ払って見せてくれるような。
私が訪れた日は、これぞという澄んだ冬の終わりの日でした。
冬の空が一番夜景と相性がいいと思っているから、春の霞を纏う前に見たいと思っていました。春と冬が行ったり来たりを繰り返し、私が行ったのも日が少しのびてきたのを感じながらマフラーに顔をうずめているような日でした。
春は、景色の輪郭が少しだけ優しくなります。太陽が、そろそろ生き物を起こそうかとあたたかさを強めだす気配がするんです。そういう時期には、私は地上から生き物を見上げたくなります。桜の枝に、だんだんと彩りが増えていくのを見るんです。また誰かと別れ、誰かと出会う。さんざん体が覚えてきた季節は、夜景よりも自然の色に、自分の歴史が刻まれている気がするんです。
夏は、他のどの季節よりも開放的な夜空を見せてくれます。ただ黙って景色を眺めていても、夏の音は懐かしい何かを思い出させてくるのです。誰かと一緒にいた時間が、その生ぬるい空気の中で濃く自分の周りに流れていると感じます。コンクリートとビーチサンダルがこすれる音も、砂浜の熱も、公園で飲む缶チューハイの甘さも、打ち上げ花火の振動も。いつか私があなたと過ごした「あの日」をじんわりと運んできては、何度も聞いた音楽のように静かに沁み渡っていくんです。
秋は、季節の名残と落ちるように進む変化にいつも私を取り残します。うだるような季節を残しながら、急速に日が短くなっていくのを感じるとき、私はいつも心細くなります。毎年のことなのに、季節の移り変わりを最も感じさせる秋を子供のような心もとなさで過ごすのです。木の葉が色を変えるように、行き交う人達もブラウンやからし色に身を包み始めます。風の乾いたにおいや日の傾きは、穏やかなように見える1日の中で私を子供にも大人にもさせるのです。
冬は、ぬくもりと孤独を記憶に刻み込みます。頬をきるような冷たさと、張り詰めた空気。誰かといても、ひとりぼっちでも、結局ひとりで生きる存在だと教えられるのです。それでも誰かのぬくもりを求め、気持ちがさまよう季節でもあります。誰かの孤独と自分の孤独を照らし出して、社会の中に生きるひとつの存在であると確認したくなるのです。それが夜景に求める温度かもしれません。
屋上からの景色を眺め終えて、凍えきった私を迎えてくれた屋内展望回廊。寒さから守ってくれる巨大なガラスの前で、また私は一人になりました。
はしゃぐカップルや若者たちの群れの中で、案外一人に慣れていく自分がいます。気にしているのは自分自身の自意識だけで、誰も私になんて興味がないから。
東京タワーもスカイツリーも富士山も。そこにぽつんと立っている姿は、淋しさも凛々しさに変える美しい出で立ちでした。どれだけたくさんの人が外界でうごめいていても、憧れの眼差しを投げかけていても、その存在は変わることがありません。
それは当然のようでもあります。でもこの変わりゆく東京の街で、いつでもそこにある存在は限りなく尊いものです。それらを眺められるこの渋谷スカイという空間は、静かにそれぞれの内面の深くへと導いていきます。弱くてもいいか。寂しくてもいいか。少しだけ未熟な自分を肯定できる気がしたのです。
今日も1日が終わっていく。夕日はいつまでもそこにあるかと思うのに、最後に消えるのは一瞬で。西の空と東の空の色は同じ時間でもぜんぜん違う色を魅せるのです。私はわたしの1日を、今日もまっすぐ生きていたんだろうか。日常をただ流されているのではなく、自分の意志で選び取ったなにかがあっただろうか。そんな途方も無い問いかけが、このどこまでも広い場所ではすっと染み入ります。
そして、日常へ、帰る。
展望台を去る時、私は少しだけ自分がひとりじゃなくなった気がしました。濃いひとりの時間を過ごした後に、大切な人の存在を意識することができるんです。だから時々、私は一人になりたくてたまらなくなります。こんな矛盾が、わがままが、いつまで受け容れられるでしょうか。
私は人生の中であと何年、ルーティーンからこっそりと抜け出して特別な夜を過ごせるでしょう。夜中に食べるジャンクフードや、終電を逃したから観たレイトショー。
そんな特別を混ぜてみると、自分のいる場所がすこしだけ美しくなった気がします。見下ろしたあの世界の中に、私の日常はありました。
日常をすこしだけ特別にすること。季節の移ろいを感じること。信じられる感覚を持つこと。それが私を私として生かすために失えないものだと感じます。
地上を踏みしめると、そこにはそそくさと駅へ急ぐ人の群がありました。
いつもならつい眉間にしわを寄せて、私も足早にそこに紛れ込みます。でもその夜の私の空気には、ちゃんと自分で選んだ特別が混ざっていました。
また今から、私は光のたった一粒になるのです。
ほんの些細な特別を自分で見つけられる一粒として、この街に溶けていきます。