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(注釈その1)南品川諏訪神社の氏子について

 京橋太刀賣の藤兵衛と包吉についてやっと書き終えられた。すぐに次の章について書き始めているが、あたりたい文献にアクセスするのに時間を要しそうでありまた数ヶ月かかるのだろうと思う。

 その間に『品川宿』に関する補足情報をまとめておきたい。まずは諏訪神社の狛犬や石燈籠の奉納者について。

 品川宿には複数の神社がある。まず品川神社。荏原神社。寄木神社。そして前章の舞台となった諏訪神社。狛犬の台座には「氏子中」と彫られているので地元から奉納されたことには間違いないが、奉納者の名前が剥落により読み取れなくなっている。石燈籠は奉納者の刻字がしっかりと残っているが、それが地元の方なのかどうか。狛犬と石燈籠の両方に同じ名前が見つけられたらどちらも氏子による奉納であろうと確定できるのだが当初はそれも確認できずにいた。

 そこを助けてくれたのが品川区教育委員会が昭和五十年(一九七五)に刊行した『品川宿調査報告書(一)』で、まず品川宿にある石造物の刻字が記録されていた。南品川諏訪神社の狛犬と石燈籠についても記録されていて、狛犬と燈籠それぞれの刻字であることが記載されていないので現物を知らないと何のことやら分からないという難点はありつつも、狛犬の台座の刻字が四十五年前の時点では今よりは残っていたようで欠字無しでひとりだけ「萬屋定右衛門」という名前が書き残されていた。狛犬の台座では今は劣化で読むことが出来ないが、石灯籠に刻まれた奉納者の名前に「萬屋㝎右衛門」があり、「㝎」は「定」の通字ということであるから同一人物ではないかと推測できた。

 またある意味面白い話だと思ったのが目黒川を渡ってすぐの荏原神社の御祭礼の神輿について、かつては諏訪神社が鎮守となっている区域は渡御しなかったという記述である。わざわざ諏訪神社の区域である南品川五丁目を避けるように渡御していたということで、この記述によっても近接していてもそれぞれの鎮守の氏子がはっきりと分かれていたらしいことが読み取れた。いつ頃までそうであったかまでは記載されていないのだが、明治時代以前のように読み取れた。

 萬屋以外の石灯籠に刻まれた奉納者を調べた中では「平野屋藤八」「丹波屋喜右ヱ門」「和久田太兵衛」の三名がある。『品川宿調査報告書(一)』に収められている南品川生まれ育ちの方達の座談の中に「青物横丁の京浜急行駅から旧東海道にかけての道路の両側は、かつてその名の通り青物問屋が並んでいて、近郷の農家から農民が運び込む野菜を集荷して、小売商に供給していた。駅から旧道までの道路の北側には丹波屋、平野屋、和久屋と言う三軒の問屋が並んで賑わっていた」というくだりがある。これが石灯篭に刻まれた三人と対応するものと思われ、位置的にも三家とも諏訪神社の氏子であったろうと考えられる。

 このうち平野屋は「フードマーケット平野屋」の名のスーパーマーケットとして二〇一八年まで営業されていた。青物横丁駅からの道と旧東海道との交差点の角で、地元の方のお話と符合する。地元から重宝されている店のようだったがイオンの大型店はそんなに離れていおらず、また青物横丁駅そばには低価格に定評のあるOKストアもあり近隣へのチェーンストアの出店が影響あっての閉店だったのかもしれない。平野屋さんに限らず、品川宿には旧家が多いので、寺社への奉納についてさらに資料が眠っているのかもしれないな、と夢想する。

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関東子連れ狛犬の系譜 第三話 品川宿


第一話 礫川

第二話 千住宿


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椋 康雄(むくのきやすお)
『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。