豊かさについて
以前豊かさとはLakṣmīの現れ、という話をしました。https://youtu.be/NjYjIHWmO7I
その話の記事を読んだ方から「豊かさって何ですか?」という質問を頂きました。「高価なファッションや化粧品で着飾って、ブランドショップの煌びやかなインスタ映えするポップアップセットで友達と写真を撮る事も豊かさなのでしょうか(たまたま見かけたそうです)?」
質問を受けた時にお答えをしたのは、
それで心がいっぱいになって豊かだな、と感じるのであれば、それはその人にとっての豊かさなのではないでしょうか?人それぞれ、それぞれの価値観があるのでそれを否定することは出来ません。豊かさは人がそれぞれ「豊かだな」と感じる事なので、特定のモノ・コトを指した総称ではないと思います。他人の求める豊かさに疑問を持つのではなく、自分にとっての豊かさとは何かを突き詰めて求めれば良いのではないでしょうか?
ただし聖典ではさらにその先に、「そんな表面上のモノコトに頼った豊かさ、心の満ち足りている状態には限りがあり、それを求めていてもいつまでたっても本当の、究極の満ちたりている事(Pūrṇa)を知ることは出来ないんですよ。」と教えてくれます。
話が逸れましたが、じゃあ、ブランドショップのインスタ映えする煌びやかなポップアップセットで自撮りをしている着飾っている女の子たちはLakṣmīの現れではないのでしょうか?それを美しいと思うのであればLakṣmīの現れです。
着飾った女子が鏡を見て「私いけてるかも」と思う気持ちも、その着飾っている美しい洋服も、良くきまっているメークも髪型も全部Lakṣmīの現れです。
勿論そのような人工物だけではなく、夕日の色のように輝く金木犀の花びらも、黄金のように輝く朝日も、それを喜んで歌う鳥たちの美しい声も、そしてそれを美しいと思う心もLakṣmīの現れです。
ここで重要なので、その認識です。
全ての素晴らしいモノコト、自分の美しささえも、全てLakṣmīと知ったときに何が起こるのでしょか?
素晴らしいものすべてLakṣmīなので、例えそれが人のモノでも嫉妬することがありません。
美しいものすべてLakṣmīなので、それが自分に現れていても己惚れることがありません。
嫉妬と己惚れは人の心を歪めます。客観的に物事が見れなくなってしまうのです。
それを阻止してくれるのが、素晴らしいものすべてLakṣmīの現れと認識する事です。そもそもすべてがイーシュヴァラの現れなので。
これは単なる思い込みではなく、土のポットは土から独立して存在しているのではなく、全て土の現れであり、金で出来た指輪には金が現れている。
「そのものを構成しているものはそのもの自体に現れている」
というシンプルな法則に則っています。
美しいものだけではなく見にくいものもイーシュヴァラの現れですが、まずは受け入れやすい
「美しいものはLakṣmīの現れ」
から生活に取組んでいってみて下さい。単なるモノコトから自分と全体をつながるきっかけを見つけることが出来るでしょう。
イーシュヴァラについてはこちらのインドの神様について、で書いてます。
イーシュヴァラを讃えるプージャーは10月15日のビジャヤダシャミーのクラスでお伝えする予定です。
शुभा भूयात्
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