心が豊かになるヴェーダの教え①アンナダーナン
ヴェーダは全ての人が環境を含む周りと調和し、心穏やかに、豊かで、幸せに生き、人としての人生を全うすることを教えてくれています。この地上に人として産み落とされた私たちにとって、何を目的にして、どうやって生きていけばいいかのガイドマップです。ほんと、知らなきゃ損。大損。
そんなヴェーダの教えの中には心が豊かになるだけではなく、お腹がいっぱいになる教えがあります。その一つが「アンナダ―ナン」=アンナ(ごはん)+ダーナン(与える事)=手作りの食事をお腹を空かしている人に提供する事・またはそれをサポートする行い、です。
ヴェーダーンタのクラスではこのアンナダ―ナンで食事を提供してもらっているので、浸透はしてきているのかな、とは思いますが、本来の意味や趣旨からズレて認識されていることがあるので、いまいちど、アンナダ―ナンの意味とヴェーダの文化背景を書き留めておきたいと思います。
日本でもこのアンナダ―ナンが広まりますように!という祈りも込めて。
なぜなら、日本の電車、特に通勤時間帯の電車に乗っているといつも思うことがあります。「活き活きと幸せそうな顔をしている人が一人もいない」
日本人の顔の特徴なのでしょうか?国民性なのでしょうか?みんな疲れ切っているから?かれこれ10年前に日本に帰ってきたときから、これは社会問題なのでは?と思っていました。インドに居れば全員ではないけれど、何人かは楽しそうにしていたり、そしてその現れは、困っている人がいたら我先に助けてくれることでしょうか。
一方日本は、親しい中でも家に招いてごはんを食べもらう習慣が無くなってきていると感じます。家庭のお母さんも時短・手抜きでお料理になるべく時間を費やさないようにしていたり。栄養を沢山取らなくてはいけない子供から働き盛りのサラリーマンまでがコンビニ弁当で食事を済ましているので、電車の中で見るあの暗い顔の原因なのではないかと思わずにはいられません。
ごはんが与え与えられると、もっと笑顔が増えるのかな、と思い、書いてみました。前置きが長くなりました、ここから本題です。
アンナダ―ナンの背後にあるヴェーダの文化の教え
①お腹を空かせている人にご飯を提供することは徳(プンニャ)となる
②調理されたごはんを売ることは不徳(パーパ)!
③周りにお腹を空かせている人がいるにも関わらず、自分一人でごはんを食べる事はパーパ
ヴェーダの文化の教え、というと、何か宗教的な取り決めて、信仰している人たちがすればいいじゃん、と思うかもしれませんが、ヴェーダの教えは先にも述べたように、すべての人を幸せにするためにあるので、一見宗教的な取り決めのように見えることでも、結果としてすべての人の心を満たしてくれる教えなので、最後まで読んでみてください。
もう一点、ヴェーダの文化は大都市、特に北インドでは触れることは難しいかもしれません。南インド、または他の地域でもヴェーダの教えを重んじるご家庭や個人たちが脈々と受け継いでいます。実際にプラクティスをしている人はインドの人の一部なのかもしれませんが、インドの根底に流れ、人を豊かにする素晴らしい文化です。
アンナダ―ナンの背後にあるヴェーダの文化の教え
を見ていきましょう。
今の日本では作られたごはんに対価がつけられて売られることが当たり前になっていますが、
そもそも「ごはん」て、何なんでしょうか?
私たちがが生きていくためには食べなくてはいけないものであり、食べられなかったら生きていけないものです。それに対価がついて、お金が無かったら食べられないって、おかしくないですか?ごはんを食べるのにお金がかからない社会こそ健全で幸せな社会だと思います。そんな事、現代社会では不可能、と思うかもしれませんが、ヴェーダーの文化はそれを実現しているので、不可能ではないんです。
その社会では生きていくためのごはんを与えることが出来る人が与え、おなかを空かした人がお腹を満たすことが出来る素晴らしい社会です。食べるために働かなくてはいけないので、勉強が出来ない、体の治療が出来ない、子どもや老いた両親の面倒を見ることが出来ない、という事がない社会です。今話題となっている「ベーシックインカム」とは異なり、人の善意と思いやりですべての人が満たされる社会です。
その社会を実現するために、この二つの教えがヴェーダの文化にはあります。
①お腹を空かせている人にご飯を提供することは徳(プンニャ)となる
プンニャこの生または次の生で自分自身に好ましい状況を与えてくれるもととなる行いの結果です。逆に、パーパは好ましくない状況を与えます。この教えが後押しとなって、与えられる人が与え、おなかを空かせて苦しむ人がいない社会が実現されます。なので、単なる宗教的な取り決めて、守りたい人達だけが守ればいい、というものではないのです。
この、ごはんを与えることを率先してやる態度は、ヴェーダの文化の中にある、人生の成長過程「アーシュラマ」が深く関係しています。
この中でBrahmacārī とSannyāsīは勉強に勤しむので、ごはんを恵んでもらうこと(Bhīkṣā)で生活をしても良いことになっています。では、誰がご飯を作るのでしょうか?社会に貢献することが義務であるGṛhasthaの人たちです。
Gṛhasthaの家庭では、自分で作ったごはんはまずBrahmacārī やSannyāsīに食べてもらえないと自分たちは食べてはいけない、という決まりがあります。
なので、外に出てお腹を空かせている人がいないかを探します。人が居なければ動物でも良いそうです。ここで重要なのは、ごはんで「惹きつける」のではなく、きちんと対象者を「見つける」ことだそうです。
実際に、最近ではインスタやフェイスブックでごはんの写真を投稿して、「食べに来てください」と惹きつける事ができますが、そこで集まって来るのは通常実際に食べるのに困っている人たちではない人たちです。なので、見つけないといけないんですね。
そして、アポなして突然来る来客の事をathitiと呼び、神様としてもてなします。
現在でも、このアンナダーナンやathitiを尊重する人たちは沢山いるので、私はインドに行くと沢山のお誘いを受けます。さらに、著名なヴェーダーンタの先生ともなると、最低でも3か月前に来てくださいとお誘いをしないといけないそうです。私が以前Swami Paramarthananda jiのお宅へお伺いをしたときは、2人のGṛhasthaが同時にスワミジに来てもらう予約をしてしまう、というダブルブッキングが起こってしまい、対処が大変そうでした!人気レストランの逆バージョンなのが、とてもインドらしいと思いました。
ヴェーダーンタの先生や勉強をしている人たちへのBhīkṣāは特に徳が高い行いとされているので、グルクラムやアーシュラムでは頻繁にアンナダーナンがされています。ここで言う、アンナダーナンは「自分で作る」のではなく金銭的な貢献を意味します。
②調理されたごはんを売ることは不徳(パーパ)!
プージャスワミジはこの「ごはんを売ってはいけない」という事をきちんと守られている方でした。例えば、日本でキャンプを行う際、食事を用意するには必ずお金がかかります。主催者がそれを参加者から徴収しようとしたら、「そういうことはしてはいけないよ」と戒めたそうです。
払える人が払える分を払う事で費用は賄えるのですが、ここでも、「自分が食べた分だけど払っておこう」と言う態度ではなく、「他の人の分も、また、お腹を空かせている人がきちんとごはんが食べられる環境が出来ますように」という貢献の気持ちで自分が出せる分だけ出すのが良いとされています。グルクラムやアーシュラムではすべての人にアンナダーナンをするにはいくらかかる、という料金設定もされています。
自分が食べた分だけ出していたら、いつまで経っても懐の大きい人間になることは出来ません。また、主催者の人も、ごはんを食べてもらった後に「アンナダーナン」してください、とお金を徴収するようなことは、アンナダーナンの真意ではありません。出せる人が、みんなのために、豊かな社会の為に貢献する、のがアンナダーナンの態度です。
また、プージャスワミジのグルクラムはアメリカのペンシルバニア州にもあるのですが、そのグルクラムの隣では、週末に大きなフリーマーケットが開かれるので、その人たちがグルクラムに「ただ飯」を食べに来ることが問題になったそうです。グルクラ厶のマネージャーは、そんな人たちにごはんをタダで与える必要はないのでは?と言った時も、「ただ飯が食べられる場所があることを知ってもらえばいいじゃないか」と言われたそうです。
ただでご飯が食べられる場所=お腹を空かしたら行けばいい場所=拠り所、まさにアーシュラムなんですよね。
また、ごはんを与える側は、食べてもらう人がお腹いっぱいになるまできちんとサービングをすることが与える際の正しい態度です。日本ではお上品に少ししかサービングしなかったり、食べ過ぎは体に良くないから、とかの理由でお腹いっぱい食べさせない場合がありますが、最初に述べたように、ごはんはお腹を空かせている人が頂くもの。他の人が勝手にこれぐらいは良いのでは?と決めるものではありません。なので、インドでごはんを食べる際は必ず、もっと食べる?と聞かれます。足りなかったらすぐにできるものを(大抵ウプマ)を追加で作ってくれます。ごはんが足りなく、お腹を満たせない人がいることは、与える義務を全うしていないことになります。
一方、そのような、沢山の思いやりと教えが詰め込まれている「アンナダーナン」を、リシケーシなどのアーシュラムには、「ただ飯が食べられた、ラッキー」ぐらいにしか思えない観光客(アーシュラムホッパー)が近年増えてきています。アーシュラムでは一般の人たちもご飯を食べることは出来ますが、日本からインドまで行って観光するぐらいの財力があるのであれば、食べるだけではなく、きちんとダーナンをするべきなのではないでしょうか?逆にしないと勿体ないと思います。
ダーナンについてはこちらをご参照ください
③周りにお腹を空かせている人がいるにも関わらず、自分一人でごはんを食べる事はパーパ
これは上で説明した、Gṛhasthaの家庭では、自分で作ったごはんはまずBrahmacārī やSannyāsīに食べてもらえないと自分たちは食べてはいけない、という決まり、の背景にもなる教えです。
この教えの現れを、私は電車に乗っている時に体験したことがあります。私がまだこの文化を知らなかったバックパッカーでインドを旅行していた頃、電車に乗ると皆さん家庭からいろいろなご飯を持ってきて食べています。「何食べてるんだろ~、美味しそうだな~」と見ている、必ず「お前も食べるか?」と誘われます。
なぜなら、自分たちだけで食べるのは良くない事なので。また、お腹を空かせている人が「良いな、食べたいな」と見た食べ物を分け与えないと、その食べ物は汚れたものになってしまいます。
家から持ってきた食べ物だけでなく、電車で食べられるお弁当も、「何が食べられるんだろー」と見ていたら、私の分も頼んでくれる人も居たり。後に私は、人が食べているものをじろじろ見るのは失礼な行為なのだと知るのでした。。。
なので、お寺ではご神体へお供物を捧げる際は、カーテンが閉まります。他の人が見て「いいな~、食べたいな~」と思うと汚れてしまうので。
また、個人でするプージャーでも、お供物を自分たちがプラサーダとしてもらう事を前提としてお供えする人がいますが、それもNGです。
ごはんの写真をSNSに載せて、「いいね!」や「おいしそう!食べたい!」のコメントが付くのも同じです。自分が食べるものを他人に見せびらかして、「いいね!」、をもらうのではなく、食べたい人に食べものをきちんとシェア(画像じゃなくて食べ物自体を)してあげるほうが、断然「いいね!」なのです。
②調理されたごはんを売ることは不徳(パーパ)!
順番が前後してしまいますが、②について追記:
今の日本社会ではごはんはお金を払ってレストランで外食したり、出来合いのモノを買ってきて家で食べる「中食」が主流です。私が子どもの時はお母さんは毎日ご飯を作ってくれて、お弁当を家族全員分作って持たせてくれましたが、そんな家庭も減ってきているようですね。
日本でもごはんの価値観が数十年で変わってきていますが、インドの変化もすさまじいです。今ではレストランで食べる事は一般化されていますが、私のグルであるSwami Dayananda jiが子供だった頃でも、ごはんを他の人に売ることは卑下される行為だったそうです。例えば、レストラン経営者の家には自分の娘を嫁がせない、とか、どこかの奥さんがごはんを他の人に売ったのであれば、井戸端会議でコソコソと話されたり。
今でも外食をしない、外で食べる時は調理のされていないフルーツのみを食べる、または知っている人が丁寧に作ってくれたもののみを食べる方たちを私は沢山知っています。
先日お邪魔した名門国立大学IITの教授であり、ヴェーダ・ヴェーダーンタの先生であるRamasubrahmanya jiもレストランでは絶対に食事はとらないそうです。そして、ご自宅でごはんを作るときは必ず生徒さんや同僚の先生方と一緒に召し上がっていました。Ramasubrahmanya jiはGṛhasthではなく、Brahmacārīなのにも関わらず、他の人にごはんを与えられることに喜びを感じ、率先して実行をされている方でした。
また、ごはんを食べることは、外の微細なエネルギーをも体内に取り入れる行為なので、作り人の精神状態や願望などが移る、とも聞いたことがあります。
商売っ気たっぷりの食事をとっていたら、自分の利益しか考えられない、そんな人間になるんでしょうね。
逆に愛情たっぷりのお食事は、愛情にあふれた人を作るのでしょう。
もっともっと書きたいことがありますが、タイムオーバーなのでここまで。
最後に:
インドに行ったのであれば、美味しいごはんをレストランやアーシュラムで頂くだけではなく、是非アンナダーナンをしてみて下さい。自分が与えられるだけではなく、与えることが出来る人間だという事を知ると、人生が豊かになり、懐の大きな人間になることが出来ます。
アンナダーナンをどこに、どのように、いくらぐらいすればいいのか分からない場合はサポートするので、ご連絡ください。
शुभा भूयात्
【クラスのお知らせ】サンスクリット語発音/読み方のクラスを久々に行います。
インドの旅がより神聖で実りの多いものになりますように!