正義の見方
自宅近くのコンビニにコーヒーを買いに行った。車を降りて店に入るところで一回り年下の男と目が合った。軽く微笑みかけてきたその感じで、どうやら顔見知りらしいとわかったのだが、どこの誰だか思い出せない。
「あの、ヒロトくんだよね?ジンです。何年か前、群馬のキャンプ場で一緒になった。」
「ああ、そうだった。ジンくん、思い出したよ。」
毎年いくつかの家族連れで遊びに行く、ファミリー向けのゆるいキャンプイベントがあり、そこに共通の友達・モーリーの紹介で来ていたのがこのジンくんファミリーだったのだ。
もっとも、そう言われても、顔もうろ覚えなぐらいだから、その時さほど会話をしたわけでもない。
二人で店内に入り、どちらともなく立ち止まると、そこは窓際の雑誌コーナーの端っこでトイレの手前、エロ雑誌棚の正面だった。
そういえば、同じ町内に住んでるってキャンプで会った時に言ってたよな。
「この辺に住んでるんだっけ?」
「うん、うちはモーリーの家の近所なんだけど、最近、この近くのシェアハウスに引っ越してね」
「シェアハウス? 家族で?」
「それがさ、奥さんが実家に帰っちゃって戻って来ないから一人暮らしなんだ。」
ジンくんの顔が曇る。
「え? だって、子供まだ小さかったよね。いくつだっけ?」
「3歳。」
「なんでまた? ケンカでもしたの?」
「ケンカっていうか、いろいろあって・・・」
そういえば、去年のイベントには、奥さんと子供だけが来ていた。
たしか、奥さんがモーリーたち夫婦にジンくんについて愚痴るのを聞いたてような淡い記憶だけがある。思い出そうとしながら、ほんと、オレって人の話をちゃんと聞いてないんだなぁと反省するそばから、ジンくんの話よりエロ本棚のグラビアアイドルの寄せて上げられた胸ばかり気になって話そっちのけでチラ見している始末。
ジンくんはコロナの持続化給付金申請のために書類をコピーしに来たはずなのだが、そんなことはおかまいなしで尚も話を続けるのであった。
「うちの奥さん、子供産むまで家事を一切しないで育った人なんだよね。」
「珍しいね、それ。」
「『結婚したら嫌でもやることになるから今はいい』って言われて、食器洗いとか掃除とか料理とかまるで経験がなかったんだ。だから結婚して子育てしながら家事をやるっていう生活で精神的に余裕がなくなっちゃったみたいで。」
「共働きで仕事しながらやってる人のこととか想像できないだろうね。鬱みたいな感じ?」
「うん、なんなんだろ。たとえば、料理してる時はそれしか見えてないから子供が危ないものに近づいても見てないし。なんか危なっかしいんだよね。おれが仕事で留守にしてる時、どうなってんだろって思っておちおち家を空けれなくてさ。」
「一人で子供見てるとつらくなる時ってあるからね。育児ノイローゼみたいなさ。協力的な両親が近くにいればいいけどね。」
「うん、だから実家に戻って休むようになってね。ちょくちょく子連れで実家に帰ってたんだけど、片や群馬、片や神奈川だからさ。だんだん帰ってこなくなって、しまいには向こうに居着いちゃった。」
「それも一つの手だよね。そしたら、ジンくんがたまに子供に会いに行く感じ?」
「それがあんまり合わせてくれなくてね。なんか被害者意識が強いっていうか、実家でもおれのこと、あることないこと悪く言うから向こうの家族全体から敵視されちゃって。」
「あららら」
エロ本棚とぼくらの間をトイレに行く客が頻繁に通り過ぎていく。
「だけど、3歳なんていったら、パパとも遊びたい盛りで一番可愛い頃だよね。男の子だもんね。」
うちの子も同じ年頃なのでよくわかるのだ。今、離れ離れにされたらさぞかしつらいだろうな。
「うん。同い年ぐらいの男の子みると、思わず泣けてくるよ。」
「そっか、大変だね。」
これは長話になりそうだなと思う。が、話はまだ終わらない。ぼくが付き合ってしまうからいけないんだろうとは思うが、人に鬱憤を吐き出させるのは慣れている。マッサージの仕事をしていた頃、客の多くが施術中よく喋った。喋ることが目的なのではないかというほどによく喋る人も珍しくない。ダムに貯まった水が一気に放水される時のイメージが浮かんだ。
壮大な排泄。溜まりに溜まった鬱憤が今や堰を切ったかのように放出され、壮大なカタルシスを生む。
いや、いいんだよ。別に急いでないし、自分が共感して受け止めることで目の前の人が少しでも楽になったり、スッキリしたり、落ち着いてくれるのなら嬉しいじゃないか。
「仕事も、年300万ぐらいの大口のお客さんに切られちゃったし」
「え、それは泣きっ面に蜂・・・このコロナ騒動の影響で?」
「それなら仕方ないんだけど、それもうちの奥さんが契約のことで電話した時に『うちの旦那をあんまり忙しくさせないでください!』って文句言っちゃって、向こうが気を悪くしちゃってね。その人は何千坪の土地持ってる大地主でそこの敷地の庭木やら果樹やら任されてたんだ。収入の半分以上そこの仕事だったんだけど、ほら、うちの奥さんは余裕ないからおれには家にいてほしいわけ。だからさ」
「でもそれじゃ収入激減しちゃうじゃん。このご時世に。」
「そうだよ。だからその人はうちの嫁に『あんたは何もわかってない。ひどい妻だな。夫の仕事の重要顧客をこんなふうに断るなんて』って言ってくれたらしいよ。」
「奥さん、そんな人に見えなかったけどなぁ。人は見かけによらないもんだね。」
キャンプ場で会った清楚でおしゃれで美しい奥さんを思い出した。あの人がねえ、わからないもんだ。ま、ほとんど挨拶程度しか話してないからどんな人だかわからないんだけど。
その後もエロ本の前で長々と身の上話は続き、嫁さんが家賃を使い込んだせいで半年も滞納していて、そこを引き払わなければいけないとか、シェアハウスに単身で暮らしている現状について聞いた。なんでも子供時分から彼を知っている友達の母親が声をかけてくれて、一人でブルーになっているジンくんの気が紛れるようにとその物件に誘ってくれたのだという。
車ですぐのそこのシェアハウスに行ってみると、四人ほどの自由人が一つずつ部屋を持ちつつ共同生活をしていて、ご飯も誰かが作ったものをみんなで食べるというような擬似家族的な営みがそこにはあるようだった。
「ま、捨てる神あれば拾う神ありでよかったね、ともかくこういう場があってさ。元気出してよ」
「そうだね、一人でいたら鬱になっちゃうからね。」
そうしてその日は別れた。
ところが、この話には後日談がある。
後日、共通の友人でジンくんの近所のモーリーに会ったので、訊いてみた。
「ジンくんにこないだ会ってさ。」
ジンくんの名前を出したら、モーリーの顔が一瞬暗くなった。
「あの植木屋の。今、うちの近所のシェアハウスで暮らしてるんだよ。」
「なんでそんなお金があるの?」
「知らない。前のところ引き払ったんじゃないの?」
「いや、うちのすぐ近くだからたまに見るし、まだ住んでるよ。二箇所借りてるってことでしょ」
「それは無駄だね。そっちは一軒家だしね。誰も住んでなくて。奥さんが家賃滞納してたんで契約更新できなかったんでしょ?」
「え? 奥さんがっていうか、ジンくんがお金渡してないんだよ。ずっとろくに仕事してないし。奥さんは先生やってたけど、出産から産休に入ってそのまま専業主婦になったんだよね。」
「え、そうなの? なんか奥さんがひどいって聞いたけど。子供にも会わせてくれなくて」
「ええ?! 逆だよ、話が。確か、彼らは今、離婚調停中だったんじゃないかな。」
「え、そこまで話進んでるの? 何も言ってなかったけど」
「ジンくん、新しい軽トラ持ってたでしょ? あれは大口の仕事切られちゃってしょげてるから、新規でバリバリ働けるようにミヨちゃんが貯金はたいて買ってあげたんだよ。」
そういえば、シェアハウスに買ったばかりのピカピカの軽トラが泊まってたな。
「だけど、その仕事を断ったのはミヨちゃんなんでしょ?」
「違うよ。ジンくんが世話を頼まれてたオリーブの木を全部枯らしちゃったから確かそれで切られたんだよ。植木屋といってもけっこう素人だからさ。果樹の栽培とかってけっこうノウハウがいるし。ちゃんとやらなかったんじゃない? で、断られたのを関係修復しようとしてミヨちゃんが電話したけど無理だったらしいよ。ミヨちゃんは育休で仕事してないから旦那にはちゃんと稼いでほしいと思ってるでしょ、そりゃ。」
目の前に綺麗に描かれていたミヨちゃん悪玉、ジンくん被害者の絵が911のツインタワーのようにあっけなく、嘘みたいに綺麗に崩れ去った。
「・・・なんか、おれが聞いた話と真逆で怖いんだけど・・・」
「あ、おれはジンくんは全く信用してないね。うちらが夫婦で借りてる畑だって、『最終的には自分たちの造園業用の土地に使うけど、それまではモーリーたちに畑でもやっておいて環境整えておいてもらおう』なんて調子のいいこと言ってたらしいから。つなぎみたいに利用するって感じで。ジンくんはね、口ばっかりで全然動かないし、ダメ」
ぼくは何を信じればいいのかわからなくなってしまった。完全に信用して、ジンくんが奥さんの精神不安のせいで参ってしまった被害者だと思い込んでいたのだ。夫婦喧嘩の間に入ると、こういうことがよくある。夫の言い分と妻の言い分が真っ向から対立してどっちが本当かわからなくなる。お互いには嘘をついているつもりがなかったりして、そしたら普段からそんなに違う対立した世界を見ているのだろうかと思う。だったら、喧嘩にもなるよな。だって全然真逆の世界に生きてるんだから、認識がシェアできないのも、対立するのもあたり前だよな。
また、別な友人とこのことについて話す機会があった。すると、その人は何て言ったと思う? こう言ったのだ。
「モーリーはね、10年前ぐらいミヨちゃんと付き合ってたことがあって、今度の騒動でも彼女の相談に乗ったり、お金を用立てたりしてたみたいよ。」
「お金を用立てるって、自分のところだってコロナで仕事減ってるから余裕ないんじゃないの?」
「そうだと思うけど、ほら、ミヨちゃんってめちゃ美人じゃない?無理したんじゃないの? 」
「・・・そゆこと? だってモーリーは焚き火やってたらいつの間にか隣に狸が座ってるような男だよ。」
「どういう意味だよ?」
「動物すら警戒心を抱かないほど、邪念と欲が薄いってこと」
それ以来、ぼくはなんだか人の話というものを信用できなくなっていった。
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「ね、ヒロトのやつ、最近見ないけどどうしてるか知ってる?なんか誰かの夫婦ゲンカに巻き込まれて人間不信になって引きこもりになっちゃったとか聞いたけど。」
「ジンくんとミヨちゃんの件でしょ。いや、それ違うよ。なんでも自分からミヨちゃんに会いに行って、ジンくんがこんなふうに言ってたってチクったり、ミヨちゃんを慰めたりして最後に手を握ってきたんだって、奥さんいるのに。信じらんないよ。ま、確かにミヨちゃんは美人だけどさ。その一件が自分の奥さんにバレて自宅謹慎みたいになってるんだって。本人から聞いてない?」
「初耳だよ(笑)」
「その一連の顛末を自分のことだけ抜かしてフェイスブックに書いてたらしいよ。」
「ヒロトが一番ひどくない?」
「誰だって自分に都合の悪いことはないことにしたいもんね。」
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