きよし この夜
ある冬の晩、ぼくは東京郊外の高尾とかあの辺にいた。あたりは山に囲まれていて民家も少なく、ろくに街灯もなかった。道にはスピードを上げた大型のダンプがたまに通るぐらいの辺鄙なところ。静かな夜だった。
ちょうど夕飯時で腹が減っていたぼくと彼女は、「もう、あそこでいいよね?」という感じでやっと見つけたごくごくフツーの大衆食堂に入った。
広い店内には先客が二人いた。彼らは店の真ん中に並んで座って、隅におかれたテレビを見ながら食べていた。一人は40歳ぐらいの元ヤンキー風。
もう一人は60歳ぐらいの男で「関節技の鬼」の異名を持つプロレスラー・藤原喜明にそっくりだった。強面の、一見その筋の人と見紛うようなタイプ。
テレビでは健康番組みたいなのをやっていた。
食事が終わると二人ともうまそうにタバコを吸い出した。
「なあ、何が体に悪ぃって、タバコだよな」
藤原の方が言った。
「ああ、ちげえねえ。言いながら吸ってりゃ、世話ねえけどな(笑)」
と元ヤン。
「お前もな(笑)」
二人は顔なじみなのだろう。気のおけない間柄なのが端から見ていてもわかったし、自宅にいるように場に馴染んでいた。きっとこの店でよく顔を合わせてはこんな風に他愛のない話をする関係なのだ。
小学校低学年ぐらいの兄妹を連れた夫婦が入ってきて、遠慮がちに入り口付近に座った。
「例の新しい仕事はどうよ?」と元ヤン。
「ああ、いい仕事だ。朝送迎して夕方また送迎するまでの間、車の中で昼寝しててよ。それだけの仕事で一日○千円もらえんだ。」と藤原。
「どこの送迎バスだっけ?」
「あの、○○って障害児の支援施設だよ。」
「ああ、あそこか。」
「バスで○○の道を走ってると、あのへん道が悪いからスピード出すとバウンドすんだよ。すっとよ、あいつらキャッキャ笑って喜ぶんだ。ほんで両手をこうやってやんだよ。」
藤原は両掌を自分の胸に向けて左右交互に上下させた。
「何だよ、それ?」
「おれもわかんねえから、後で施設の職員に聞いたらよ、手話なんだ。これで『楽しい!』って意味なんだと。それでおれもよ、最近簡単な挨拶とか手話で話してんだ。」
「子どもたちと?」
「ああ。朝よ、『おはよう!』っておれがやるとよ、向こうも『おはよう!』ってやんだよ。親たちも喜んでくれてよ。」
藤原のいかつい顔がくしゃっとほころんだ。
「あんたが手話か・・・(笑)」
元ヤンは藤原を見直した。なんだか自分のことのようにちょっと恥かしそうだった。
「そいで、最近ルートが変わって○○んとこ走ってんだけどよ。」
「ずっと同じコースじゃねんだな」
「あれよ、なんでコース変えるかっていうとな、同じコースだとデキちまうからだよ、運ちゃんと母親が。」
「馬鹿言え(笑)」
「ほんとだ!おれは見たんだ。」
「自分の夢じゃねえのか?(笑)」
「本当だって!」
ぼくは彼女を挟んで向こう正面に並んで座っている二人をチラチラ見ながら盗み聞きしていた。彼女もぼくも何度か微笑んで顔を見合わせた。
二人が食べ終わって出て行った後、レジで店主の奥さんと話した。
「さっきの二人のやりとり、面白かったですね。常連さんですか?」
「そうそう。あの年上の方はね、昔この辺じゃ有名な不良だったのよ。応援団みたいな学ランに土管みたいなズボン履いて喧嘩ばっかり・・・。初めてあの人が店に来た時は『嫌な人が入ってきたわ』と思ってねぇ。」
「地元の人なんですね」
「そうそう。で、高校出てすぐダンプの運転手になったのよ。もうとっくに引退しちゃって、今はほら、送迎バス運転してるんだけど」
「そんな歳にも見えないですけど」
「やっちゃったのよ…事故」
まるで自分が車をぶつけたような苦い顔だった。
「…え?」
「この近くの道でね。小さい子が道に飛び出してきて」
「…助からなかった?」
厨房でそれとなく話を聞いていた店主が首を振りながら話に入ってきた。
「無理無理。10トンダンプだから。ペチャンコだよ。」
そんな露骨な言い方しなくてもいいのに(泣)。
「…それでどうなったんですか?交通刑務所とか?」
「たしか、入らないで済んだはずだよ。」と店主。
「それがね、あの人は全く悪くなかったのよ。仕事はちゃんとやる人だから普段からすごく安全運転で無事故無違反でやってたの。それをみんな知ってたし、その時も目撃者が何人かいて、証言したのよ。『あの状況なら誰が運転してたって避けようがなかった』って。」と奥さん。
「それは不幸中の幸いでしたね」
「今でこそまた運転できるようになったけど、もうその事故でハンドル握れなくなっちゃってね…」
「…」
「そういう過去を知ってるから…」
一瞬、みんな黙ってしまった。テレビから聞こえる司会の落語家の声だけが店内に響いていた。
「あの人ったら、こないだなんか朝の送迎終わって昼寝してたら、バスの中に一人しゃべれない子が取り残されてるのに気づいたとか言って。降ろすの忘れてたんだって(笑)。ほんと抜けてんのよね〜。」
みんな弾けたように笑った。
その時、ぼくらの後から来た家族連れが食べ終わって一家揃ってレジまで来た。
「…あの、私たち最近この近所に越してきた○○といいます。よろしくお願いします。」
実直そうな父親が頭を下げた。
「ああ、そうですか、こちらこそよろしくお願いします。」
と店主の奥さん。
「この子はアトム、この子はウランです。」
父親は息子と娘をそう言って紹介した。実名らしかった。すんごいキラキラネームだな、しかし。
「アトムは耳が悪くて喋れないんです。共働きなので帰りが遅くなる時に子供たちだけでこちらのお店に来させても大丈夫ですか?」
「…もちろん、ウチはかまいませんよ。どうぞいらしてください。」
ぼくらはなんだか不思議な気分で店を出た。
「意外と良かったね、あの店。」とぼく。
「なんか降りてきてたよね、あそこに」と彼女。
この近くに少しの間住んで、たまにあの店に行ってその後の人間模様を見届けたいような気持ちだった。
あそこにいた何者かと一緒に。