スープが命
ある晩のこと、一軒のラーメン屋の前で一人の男が行きつ戻りつしている。時間を気にしながらも、なかなか中に足を踏み入れない。
客足の途切れた店内では、片付け始めながら入口のガラス戸越しにチラチラと人影が見え隠れするのに店主が気づいていた。
店主は戸を開けて男を見ると言った。
「お客さん、入るの?入らないの?もう片付けちゃうよ。」
男は、
「すみません。ラーメン一杯ください。」
男を中へ通すと、店主はのれんをしまった。
店主は黙々とラーメンを作り始める。
やがて男の前にゴトリと丼が置かれ、男も黙々とラーメンを啜る。一口ずつ確かめるように小さく頷きながらスープを飲み干す。
厨房から店主が言った。
「・・・他のお客さんには内緒だけど、もし金がないなら今日は奢るよ。」
「いや、そんな、そんなつもりじゃないんです・・・実は、一つお願いがありまして・・・」
「もったいつけないで早く言いなよ」
生来ぶっきらぼうで回りくどいことは大嫌いな店主である。もっとも、ラーメン通の間でもつとに知られた名店であり、聞かなくても想像はついていた。
「・・・ス、スープのレシピを教えて頂けないでしょうか?」
男はまっすぐに店主の目を見つめた。思いつめた一途な目である。同じような目を何度見て来たことだろう。
「同業者さんかい?」
男は頷いた。
「客がつかねえんだな?」
また頷いた。
「申し訳ないんだが、結論から言えば、ノーだ。」
店全体の空気が重くなるのが店主にははっきりと感じられた。
「いやな、同業者を助けるのが嫌なんじゃない。仮に教えたところで、自分にできる最高のラーメンがこれだって心底思えなかったら、自信持って客に出せないだろ?『どうしてこの味にしたのか?』なんて誰も訊いてこないがね、自分で作った奴はさ、みんなその答えを自分の中に持ってんだよ。それを手ではっきりつかんでるんだ。『他の人がうまいって言ってくれるかはわからねえけど、少なくとも自分はこれが心底うまいと思った』って。それが一番大事なことなんだよ。」
男はその言葉を噛みしめるように少し黙った後、代金をテーブルに置いて「ごちそうさまでした」と言って去った。
ドアが閉まってしばらくすると、店主はどんぶりを下げながら軽いため息をついた。これまで似たような申し出を幾度断ってきたことだろう。毎回今のようにいっぱしの成功哲学をとうとうと述べてきたが、その度に店主の胸は苦しくなった。どうしても製法を教えられない理由が全く別にあったからだ。
店主は片付けを終えて、まっさらな寸胴に翌日の分のスープを仕込みにかかった。仕込むと言っても冷蔵庫から業務用の大型ペットボトルを何本も出してそれに調味料と水を足しただけで、魚介やゲンコツや野菜をぐつぐつ煮るというような型通りの方法ではなかった。ボトルには「清美の天然だし」とマジックで書かれている。
店主はそのボトルを幾分うらめしそうに見ながらひとりごちた。
「言えねえよ、嫁が作ってるなんて」
店主が家に帰ると、風呂から妻の清美の鼻歌が聞こえた。
「ただいま」
風呂場の前でそう声をかけると、中から清美が言った。
「明日のスープ、そこに置いたよ」
脱衣所の床に大きなペットボトルに入った液体が置いてある。
「追加まだ間に合うか?客が多そうだから」
店主がドアを開けると、浴槽でタブレットの映画に見入っている妻が振り向いた。空のペットボトルを受け取った女はキャップを外して自分が使っている湯の中に入れた。ボコボコボコボコと音が鳴り響いてからキャップを締め、また亭主に返した。
「よかったよ、まだ流してなくて」
店主はそのボトルを脇に抱えて軽バンに積み込みドアを閉めた。
「これが一番なんだよな、どうしてか・・・」
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