フラス子さん

出会って30年経とうとしている。

当時私は盛岡市から仙台市に引っ越してきて、街の大きさにびくびくしている若者だった。高校時代に集まった芝居仲間数人と仙台での活動を始めたが、頼るべきもののなさにプルプル震えていた。
その時に会ったのが三角フラス子さんだ。
会ったと言っても、こちらから向こうを見ているだけだ。フラス子さんはたくさんの仲間に囲まれ、たくさんの大人にチヤホヤされ、輝くステージの上にいた。といってギラギラした圧があるわけではなく、「口数の少ないさらさらヘアの少女、でもクラスのみんなが声をかける」という佇まいで、とにかくずるいなあと思った。
作品世界も私には分からず、立っている場所が違うなあと思った。

社会人になって数年経った頃、フラス子さんはまだ同じバスに乗っていた。
同世代の芝居人は少しずつバスを降り、同世代の劇団はほとんどいなかった。なんとなく見回すとフラス子さんと目が合った。
演出の国久は何かと関わりを持つことが多くなっていく。

さらに数年が経ち、フラス子 作・演出の生田さんと某講座で一緒になることがあった。
もう前後関係は忘れたが、課題となる戯曲を読み解く中でひとつのセリフを取り上げた生田さんは「それは彼女の魂の叫びなのよ」と言った。「魂の叫びだと思うなあ」だったかもしれないが、とにかくそんな私の箪笥には入っていない言葉・これから死ぬまで私が言えないであろう言葉をさらっと言ったのだ。
愕然とし、やはり交わらない運命なのだなと感じた。

さらに十数年が経ち、自然の脅威、人生の波をくぐりぬけ、まだ同じバスに乗っている。
私自身もフラス子さんの公演に関わらせてもらい「口数の少ないさらさらヘアの少女」はいなかったことに気付いていくが、それはまた別の話。(いたのはモリモリ食べる瀧原さんだった)

いま、ひとつのテーマで、異なる劇団が作品をつくる。
図らずも各作品のタイトルに同じ文字が入った。同じバスの窓から違う景色を見ていた二人が同じセリフを言ったような気がした。私は世界が二人に同じセリフを言わせている気がする。口が開き声を出そうとすると同じ言葉が出てきてしまう。それはシュプレヒコールになるかもしれない、悲鳴になるかもしれない。内部にいるけどまだ私にも分からない。
…作品はまだもちゃもちゃと作っている途中です。

劇団無国籍
斎藤大典

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