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カルトは白黒思考を「利用」する


 宗教2世問題などを通して、カルトというものの手法をずっと観察したり、考察してきたムコガワさんであるが、洗脳や誘導に用いられる最も「有効、かつ恐ろしい」方策としての「白黒思考」「0/100(ゼロひゃく)思考」について、ここで継承を鳴らしておきたい。

 「白黒思考」や「0/100思考」というのは、ものごとを両極端でしか判断できない考え方のことを言うのだが、まさに「白と黒の間に無限のグレーがある」とか「0%から100%の間に100段階もの中間がある」ということを、人はついつい、すっ飛ばしがちであることは否めない。

 現実の物事というのは、いろいろな要素が複雑に入り組んでおり、完全な白や完全な黒であることは、あまりない。とくに人格などに関しては、完全な善人や完全な悪人がほとんどいないことは、「誰もがいちおうは理解している」と言ってよいだろう。

 しかし、それでも、人は「白黒思考の罠」に陥りやすい。ひらたく言えば、「あの人は”いいもん”(善人)なのだろうか、それとも”悪もん”(悪人)なのだろうか」という判定は、テレビのニュースをみながら、ほとんどの人が、毎日のように行っているに違いない。

 それほど「いいもん/悪もん」に単純に分ける、ということは、シンプルでわかりやすく、便利なのである。

(そして、まあたいていの映画やドラマは、この「いいもん/悪もん」の構図で描かれており、いいもんが勝てば安心するし、悪もんが勝てばもやもやするように作られている。翻ってこうした考え方を「勧善懲悪思考」「善悪二元論」とも言う)


 さて、なぜ人は「いいもん/悪もん」などの白黒思考や善悪二元論が大好きなのかというと、もともと、生物というのは「快か不快か」だけを神経細胞で判定して、そっちへ近寄っていこう、という性質があるからではないだろうか。

 人間の感情や思考というのは、実はこうした「快/不快の判定」から神経回路が発展してきたものである、という説があるそうだが、おそらく本当にそんなところだろうと思う。

 あったかい方が快適、あかるい方が快適、といった単純な二元論で、神経細胞はどちらへ進んだほうが生き残りやすいかを判断しており、それはある意味では客観的なデータであり、ある意味では直感的なあやふやなものであろう。それでも経験則として遺伝子に組み込まれているのは、わざわざ冷たい方へ移動するのは死につながるかもしれないし、わざわざ暗い方へ移動するのは死につながるかもしれない、という二元論なのである。

 もちろん、実際には、「単純な状況」が生命を担保してくれるとは限らないのだが、細胞なり生命が移動すべきルートを選択せよと言われれば、彼らはそうしたシンプルな選択を重ねて、その結果生き残ってきたということになるだろう。

 つまり、白黒二元論は、「生命的な、きわめて遺伝子のベースレベルからの、人に刷り込まれた反応」に近いと仮定することができるのである。


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 さて、ここからは恐ろしい話だ。

 人間というものは、こうした遺伝子レベルに刷り込まれた本能にとても弱く、すこし悪い意図があれば、簡単にハッキングすることができる。

 これもシンプルな事例で言えば、ハニートラップなどがその最たるもので、男にはきれいなおねえちゃんをあてがっておけば、簡単にひっかかるのである。これは性という本能を利用した、とても単純なトリックである。

 そして「白黒思考」「0/100思考」は、いともたやすくカルトによってハッキングされる。

 宗教2世問題において、宗教環境下におかれた人間は、「白黒思考」の罠に陥るように洗脳されているが、洗脳というより、もともと人間にはその考え方が備わっているのだから、「白黒思考を利用されている」と言ったほうがより正確かもしれない。

 「神の側と悪魔の側」「正しい教団と間違った世の中」といった二元論で、宗教は常に動いており、いったん「いいもんと悪もん」に分けられてしまえば、信者はいいもんを無条件に信用し、悪もんを無条件に避けるようになる。

 こうして特定の教えにしばりつけられた信者が、めでたく囲い込まれるというわけだ。


 このnoteでも常々書いているように、ムコガワは元エホバの証人の2世なので、カルトが用いる「二元思考」の手法について、熟知している。どういう言い方をすれば、人を簡単に「たらしこめるか」については、よーくわかっている(つもり)なので、常に冷静に様相を観察しているのである。

 その上で、現在もっとも気になっているのが、2024年の兵庫県知事選挙における、世論誘導の問題である。

 この選挙「S藤という知事が信任に足るか」ということを争点にしながら、不信任からの失職、そして再選というドラマが展開されているのだが、2024年12月現在においても、その知事が「公職選挙法違反」で当選したのではないか?といった疑惑が渦巻き、とんでもないカオス状態になっている。

 この事態については、ほかに多数の記事や検証が存在するので、大きくは触れないが、実はS藤陣営において、カルト的な「白黒思考」「0/100思考」への誘導がものすごく多く行われていて、また「多くの県民がコロリとそれにひっかかっている」ことに注目してみたい。

 その構図は、実にシンプルだが、効果的なものだ。

 そもそもS藤知事が失職に追い込まれたのは、「その行動の要素要素が、問題のあるものだったからだ」という点にある。たとえば、パワハラであるとか、おねだりであるとか、そういう比較的微妙なものから、「公益通報のシステムを壊して運用した」という大きくヤバいものまで、各要素は複数議題に挙げられ、それをもって議会は全会一致で不信任決議をしたのである。

 まさにことば遊びで面白いのだが、S藤知事の場合「グレーなのか黒なのか」よくわからないものが多数、積み重ねられて、これは辞めていただくのが適切であろう、ということになったのである。

(余談だが、残念ながらS藤氏については、超絶ホワイト、純白の白といったデータがほとんどなく、なにかしらグレーなデータがつきまとっているのが興味深い)

 ところが、知事再選の原動力となったストーリーでは、それぞれの個々の要素についてはあまり語られず

「元知事は既得権益と戦った”いいもん”である」
「告発・自殺した県民局長は不倫をしていた”悪もん”である」

といった、人格的な善悪二元論、白黒思考での言説が、S藤側陣営から矢継ぎ早に発せられた。

 そして県民の中には「そうなのか、元知事は”いいもん”だったのか」というシンプルなイメージが生まれ、まんまとその善悪二元論、白黒思考に乗せられてしまった人が多数いたのである。


 S藤氏とその取り巻きの問題点は、「個々の要素が、多数ヤバい」という点につきる。そのため選挙後になっても、PR会社の社長が行っていた公職選挙法違反のSNS戦略が問題になったり、別の党首が行っていた他陣営への妨害工作が問題になったりしている。

 これらをまたひとつひとつ精査してゆくと、「グレーのものもあるだろうし、ブラック(アウト)なものもあるだろう」という時間とコストがかかる検証作業が必要なのだが、S藤陣営は個々の要素についてはいっさい知らぬ存ぜぬを貫き通し、11月末現在では亡くなった県民局長の不倫の証拠を公開して「ほら、こいつは悪もんでっせ」ということをアピールする形になっている。

 仮に県民局長が不倫をしていようが、公益通報システムの運用を恣意的に捻じ曲げたこととはまったく関係がないし、なんなら県民局長が「悪もん」であったとしても、知事サイドもじゅうぶん「悪もん」なのであれば、どちらも断罪されるべきなのだが、カルト的な扇動手法によって

「あっちが悪もんなのであれば、自動的にS藤知事はいいもん」

になるように仕向けられているのだから、それは大衆が踊らされていることになるだろう。

 なんなら神様の目線で公平正確にジャッジするのであれば、「黒(ブラック)なヤツは全員アウト!退場!」となるべきなのだが、なぜか片方が「悪もん」なのであれば、反対側が自動的に「いいもん」になってしまうという、意味不明のことが続いているのであった。


 なんども言うが、こうした「”悪もん”の反対側は、自動的に”いいもん”」になるように仕向けられているのは、それが ”テクニック” だからだ。

 なんなら「喧嘩両成敗」といった言葉も日本には古来からあるのだが、そうした言説がちっともでてこないのは、日本中が「白黒二元思考」の罠に陥るように仕向けられているからに他ならない。

 さて、不倫と言えばおもしろいのは、K民民主党のT木氏の場合は、ちょうど同じ頃に謎の中年美女との不倫がバレてしまい、それはそれでおおごとになったのだけれど、不思議なことにそれ以上の追求はなく、あいかわらずこれからの政権のキャスティングボートを握り続けている。

 これは、今までの説明を勘案すればすぐに理解できるのだが、T木氏の場合は「不倫」という要素があり、「政策」という要素があり、それぞれが別個に取り沙汰されているから、成立するのである。

 つまり「不倫男だけれど、それはそれとして政策論争が別にある」という状況が今も続いているのだ。

(こういう切り分けをできることが、まだマシな感覚なのかもしれない)

 ところが、県民局長の場合は「不倫男なので、うそつきであり自動的にS藤知事は無罪」という言説が飛び交っているが、これはシンプルに単純な話で、

”そういうストーリー(白黒二元論)を、わざと流している”

からなのである。

 なのでT木氏の場合も、「不倫男はすべて嘘つき」というキャンペーンを誰かが意図的に流せば、おなじことが起きるわけで、結局は、大衆は誰かの意図に操られていることになるわけだ。


 さて、結論であるが我々は白黒二元思考に弱い。それは本能的に弱いので、ものごとを判断する時には、「要素要素を切り分ける」くせをつけておかなくてはならない。

 シンプルに「いいもん/悪もん」を分ける構図に持ち込まれてしまうと、簡単に誘導されてしまう恐れがある。

 それに気づかないと誰かの悪意によって「コロリと騙される」ことが起きる。

 何と言っても、兵庫県民の4分の1くらいがコロリと騙されているかもしれないので、それはものすごい罠だということになる。


 心して、気をつけたいものである。 


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