<4>自由とリベラルが揺らぐ中で 〜君たちはどう生きるか〜
これまで3回分の記事において、現代社会や先進国においては自明のことと思われた「自由とリベラル」が揺らいでいる昨今の状況についてお話をしたところです。
その究極の原因は
◆ 「人間は動物のボディと動物脳を有しており、先史時代からの動物の感覚を超えることはできない」
◆ 「そのボディの上に、高度に理想化された科学や文明を操る知恵知識が乗っかっている」
ということにありました。
そして、
”どんなに文明が発達し、高度な知性を発揮したとしても、究極的には「感情(動物脳)」に人は勝てないのだ”
ということもお話したと思います。
私たちの人類は、動物脳と理想脳のギャップの中で、その矛盾に混乱しながら、より良き理想社会へと突き進んでいる実態があるわけです。
もちろん、自由であり、リベラルであることは望ましいものだと思います。しかし、人間が物理的な肉体を持っている以上、限界値があり、かなわないこともあります。
誰もが死なず、病気をせず健康で、潤沢なお金や望ましい人間関係を持ちながら、住居や食料に欠乏することなく平等に生きていければいいわけですが、実際には、人は災害に遭ったり、病気になったり死んだりします。子供を授からないことだってあるし、食べ物に苦労することだってあります。
身長には高い低いがあり、速く走れる人もいればそうでない人もいます。知能にだって高い低いがあります。それはひいては、稼げる者とそうでない者の差へとつながってゆくのかもしれません。
それらの苦悩の多くは、肉体に起因するものも多いと思われますが、それはまさに「肉体と動物脳」によって引き起こされているわけですね。
今回、「君たちはどう生きるか」という有名なタイトルを引用しましたが、実はこの元ネタにまつわる問題提起が存在することをお話しておきましょう。
「君たちはどう生きるか」という書物は、昭和12年(戦前)に吉野源三郎という人によって書かれた児童書です。まだ日中戦争が始まるか始まらないかという時代の話で、主人公はぶっちゃけ上流階級に属するおぼっちゃまです。
そのおぼっちゃまくんが、身の回りのことを観察し、いろいろな気づきを得ながら生き方を探求する、という話なのですが、これは「持てる者たちのお話」と言えるでしょう。
まるで自由とリベラルのように「理想化された社会階層」の上に成り立っているお話なので、主人公のコペルくんのように、経済的・文化的に恵まれた人はそうした「自由とリベラルを享受できる」けれど、社会の地べたを這いずり回っている子供たちには、それは当てはまるのか?という反論が、この元ネタのほうにもなされているというわけです。
現代の状況を評して、作家の橘玲さんは、「日本社会は偏差値60以上向けに設計・運用されている」と言っていますし、精神科医の熊代亨さんは、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」という書物を上梓して、この状況に疑問を投げかけています。
簡単に言えば、「自由でリベラルな理想社会」を突き詰めてゆけば、
『健康で、常識を持ち、学歴があり、社会的立場を持っていて、経済力があり、家族がみな幸せで、知識に基づいた分別ある暮らしを送る人間』
が望ましく、全員がそうあるべきだ、ということになるわけで、そこからは多数の人間が
落ちこぼれる
のだけれど、それは見落とされがちだ、ということですね。
たとえば、「伝統的で閉鎖的な考え方」とか、「自己中心的な思考」とか、「非学問的で非論理的」とか、「封建主義」「差別思想」などは、
あってはならないもの、存在を許されないものとしてぶった斬られ、無視されて
ゆきます。
あるいは自由主義競争の中での敗者は、自己責任で切り捨てられるわけです。キモいもの、クサいもの、ダサいもの、おっさん・おばはん・老害は除外の対象として、忌避されてゆくのです。
自由で平等だと言いながら、リベラル社会においては、「理想的でない、動物的、人間的、前時代的なもの」は、実は尊重されないのが実情だと、気付くことに損はないでしょう。
話はこれまでに戻るような例ですが、「多様性を認めること」は「男尊女卑の習俗があることを認める」わけではないのです。「平等」とは言いながら、「感情的なおっさんの人権も認める」わけではありません。
よーく観察していると、「自由でリベラル」というのは、ある一定の方向性の範囲を示しているに過ぎないことも見えてきます。
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さて、ではそんな社会の中で、私たちは「どう生きればいい」のでしょうか。
大事なことは、一番最初に書いたように、
「理想化された自由とリベラルは幻想である」(人権は単なる紳士協定)
ということをまず理解することです。
ですから、どんなことでも「こうあるべき」「これが正解」「こうしなくてはいけない」ということは、話半分くらいでよい、ということを覚えておいてください。
こうあるべき、という自由でリベラルなテーマはもちろん存在はするのですが、それですら「幻想」の上に成り立っていることを知っておくのが、ベターなのです。
健康で文化的で、理想的な社会人であらねばならない、ということも、目指すのは半分くらいでいい、ということです。
第二に覚えておきたいのは、やはり「人間は感情には勝てず、動物ボディと動物脳に結局は支配される」ということです。
ある男女が、とてもハイスペックな能力を持っていて、優秀な学歴を持ち、立派な仕事をして過ごしたとしましょう。別の男女が、ぐうたらでパチンコばかりしながら、ジャージで過ごしていたとします。
ハイスペック男女は、35歳で子供を1人もうけました。ジャージヤンキー男女は、もう4人くらい子供を産みました。
50年後、100年後に、その社会はどうなっていると思いますか?動物的肉体のほうが、はるかに強いことが、すぐに理解できると思います。
しかし、だからといって、私たちは「動物のように、動物時代のままで生きればいい」というわけではないのです。
これも最初のほうにお話したように、人類は長い歴史の中で、いろんな悲惨な状況を経て、「自由でリベラルなほうが、より良いだろう」という方向性を発見し、守り続けてきました。
だから、動物脳・動物ボディからの脱却をめざして、日々精進することも、けして間違いではありません。
結局、私たち人間は「動物脳」と「理想脳」のバランスの中で生きています。その理想像が歴史の中で変化してきたように、バランスの取れたちょうど真ん中くらい、というのは、人によっても、社会によっても、時代によって変化します。
だから、その基準はアバウトでもよいのですが、「バランスの中で生きているんだ」ということを覚えておくようにしましょう。
たとえば、女性が「仕事に邁進しようか、子供を産もうか」ということで迷うことがあるように、まさにそのバランスが、人生において最も重要なテーマになってくるということなのです。もちろん、男性だって同じです。
仕事、家庭、名声、健康、いろいろなものが肉体と理想のバランスの中で「落としどころを見つけてゆく」ということが、もっとも”生きやすい”生き方となるでしょう。
私が「解脱者」を自称しながらこんな文章を書いているのは、そのバランスを大切にするゆえです。
「こうあるべき、これが正解」ということからは、「どーでもいいわ」とそっぽを向いたり、「こうしたい、これが欲しい」という動物的な感覚からも、「それもまた、全てではないんだ」と気づくこと。
「古い脳」「新しい脳」のどちらからもある程度フレキシブルで、束縛されずに生きることができれば、それがまさに「解脱」なのだと思って、日々過ごしております。
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