「ハゲ頭上っていけ」で有名なエリシャは、なぜ殺人熊使いだったのか?
twitter界隈においてエホバの証人2世の間で定期的に話題になるネタとして「預言者エリシャ」の話がある。
まあ、普通に聖書に出てくる話なので、別に宗教2世に限らず、聖書を読む者であればけっこう誰でも知っているエピソードなのだが、あまり聖書っぽくないというか、なぜそんな話が出てくるのかわからないため、
「違和感」
がある箇所としても有名でもある。
そのネタ、どんな話かというと「列王記」に載っているのだが、
”エリシャという預言者がいて、エリコの水が汚れていたので、水源を清めた。その後、彼が道を上ってゆくと、周囲にいた子どもたちが『ハゲ頭、上っていけ”と囃し立てた。
するとエリシャは怒って、神の名のもとに子どもたちを呪い、森の中から2頭のクマが現れて42人の子どもたちを引き裂いた”
というものだ。
エリシャは預言者なので、まあいわば「いいもん」と「わるもん」で言えば聖書の中では「いいもん」のはずなのだが、「ハゲ」と言われたくらいで凶暴なクマに子どもたちを襲わせるのだから、めちゃくちゃ恐ろしい。
「いいもん」の預言者でも怒らせたらあかんのか?と子どもたちは震え上がり、自分の教会やら会衆やらにいる「ハゲ」のおっさんに対しても震え上がるようになる、というオチである。
ちなみにエホバの証人の間で使われる定番のフレーズの中に、「励まされる」というワードがあるのだが、「ハゲ増される」なんて心の中で思いつた日にゃ、思わず吹きそうになりながら、エリシャのことを思い出してガクブルするという、二重の意味で思い出深いエピソードとなっている。
さて、繰り返しになるが、この箇所には違和感がある。正義の側、神の側にいるエリシャが、なぜ子どものしょーもない囃し立てくらいで、激怒せねばならないのか。あるいはエリシャではなく、神が激怒したのだとしても、なぜそこまでやらねばならないのか。
……もしかして、神はハゲなのか?
という違和感の謎を、今日は説いてゆきたい。
しかし、これからする話は、キリスト教神学的に定説があるわけではなく、あくまでも武庫川が、聖書をいろいろ研究するなかで、
「もしかしたらこうなのではないか?
と考える、ひとつの仮説であることも了承していただきたい。
では、はじまりはじまり。
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エリシャのこのエピソード、歴代の聖書学者たちをも悩ませたらしく、いろんな曲解が生まれている。
■ 小さなこどもではなく、ある程度の少年だったのでは?
■ ヤンキーがたむろしていて、道行く人をアオっていたから。
というものから、Wikipedeliaにあるような
■ エリコの人たちは、少年の属する村から水を買わないと生きていけなかったのだが、エリシャが水を清めてしまったので、収入源を絶たれたことを子どもたちは言っている
などの解釈もあるようだ。
しかし、武庫川説ではもっとスッキリ、ズババババーンとわかりやすい解釈を提案したい。
それは
「エリシャ、めっちゃつおい」
説である。
「本当は来ないハルマゲドン」について書いた『さよなら すべてのハルマゲドン』シリーズでも説明したが、聖書は意図的な編集や改変が加えられているので、現代人の我々から遡るとちょっとわかりにくいが、基本的に聖書に書いてあることは
”エホバはつおい。めっちゃつおい”
ということである。多神教の世界において、いろいろな神々がいるなかで、
「エホバが最も強く、いちばんヤバイ神である。もうキレッキレ!な神なのだ」
ということをずっと主張しているのであるから、その観点でひもとけば、エリシャの話もスッキリ見えてくるのである。(以下も参照)
エリシャについて、当時のニュアンスでは、
”熊に子どもたちを襲わせるほど、エリシャはヤバくて、キレッキレで、強いのだ!もうエゲつないほど、力があるのだ”
というのが、本来の描き方で、それを見てヘブライ人は
「そりゃめっちゃ強い、ヤバイ神(預言者)なので、ご利益があるに違いない」
と考えたというのが実情に近い。
なぜなら、異民族をぶっとばしてくれないと、流浪の民はすぐに滅ぼされてしまうからである。
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さて、このエリシャ。どうも只者ではない。話をいろいろ突き合わせてみると、エリシャのハゲ・クマ・エピソードがなぜ残っているのか、その理由もなんとなく見えてくる。
その対比のために、以前にも紹介した「殺人鬼イエス」の物語を思い出してみよう。(以下も参照のこと)
これは後代の編集においてカットされた外典に含まれる話だが、幼少期のイエスがこどもを殺しまくる話である。
もう一度確認してみると、こんな感じだ。
■ 少年イエスが水を穴にためて遊んでいたら、別の少年がその水を流してしまった。ぶち切れたイエスはその少年をカリカリに干からびさせた。
■ 少年イエスに、走ってきたこどもの肩がぶつかった。怒ったイエスはその子を呪い殺した。
■ その子の両親が怒ってやってきたら、両親もついでに盲目にしてやった。
■ お父さんのヨセフが、イエスをしかって耳をひっぱったら、「おまえは俺をだれやとおもとんねん(意訳)」と威嚇した。
特に最初のエピソードは、エリシャの話に似ていると思わないだろうか。
イエスが水を触っていた話と、それを妨害した子どもを殺してしまう話は、エリコの水源を清めた話の後に、クマもん42人殺しの話が書かれていることと、どこか通じる部分がある。
以前の記事にも書いたが、初期キリスト教において、この殺人鬼イエスの話は、「めっちゃウケた」のだそうだ。なぜなら、イエスは「つおい」からである。
つまり、古代人や初期キリスト教徒の感覚は、現代人とは違うのである。いわゆる道徳的に正しくて全なる存在である神を信仰しているというよりは
「強くて、キレッキレで、めちゃんこ超自然のパワーがあるヤツ」
を信仰しているのである。
だから大災害を起こせるエホバや、42人殺しができるエリシャや、超能力少年イエスが、大ヒットするのである。この考え方、視点がないと、聖書の本当の意味は読み解けないということなのだ。
ところが、時代がどんどん下って現代に近づく中で、「道徳的」な考え方が発展するようになっていった。なので、特に新約聖書では、そちらに近い編集がなされるようになったが、むしろ道徳的な視点のほうが、「後付け」なのである。
エリシャとイエスは、おそらく紐付けられて執筆されている。
武庫川的仮説では、イエスは
「1000年王国的には、王であるダビデに紐付けられ」
「奇跡を起こす人物(預言者)としては、エリシャに紐付けられた」
のではないか?と考えている。
聖書の話題としては、神の国の王なので、どうしてもダビデに寄せられる方ばかりが注目されているが、どうも、奇跡を起こす預言者としては、「エリシャのエピソードをくっつけられている」気がするのだ。
もしかすると、新約聖書編纂時に、イエスの権威付けのために、「エリシャ」のエピソードを持ってきて、創作している可能性もあると思う。(これは個人の感想です)
もう一度、引用したウィキペディアのエリシャ項目を開いてほしい。そこに、彼の起こした奇跡が載っているが、
エリコの町の水源を塩で清めた。
油を増やして寡婦とその子供たちを貧困から救った。
シュネムの婦人の子供がクモ膜下出血で死んだ際、その子を生き返らせた。
毒物の混入した煮物を麦粉で清めた
パン二十個と一袋の穀物を百人の人間が食べきれないまで増やした。
アラムの軍司令官ナアマンの皮膚病をヨルダン川の水で癒した。
水の中に沈んだ斧を浮き上がらせた。
これを見て何も感じないだろうか?
名探偵コナンくんが登場して「あっれっれー?おっかしいぞー?」とつぶやくはずだ。
そう。「なんか食べもん増やすシリーズ」って、イエスもやってたよな?
と誰もが思うだろう。
「皮膚病治すシリーズもあったよな」と思い出してきただろう。
もちろん、エリシャのほうが時代が古く、彼が生きていた時代にはイエスは全然登場しない。なので、エリシャネタのほうがたぶんオリジナルなのだろうが、イエスが登場してのち「福音書」の執筆者たちは、イエスのパワー、能力を「エリシャ」に仮託して、
「イエスはエリシャのような力がある、すげえやつなんだぞ」
と描写した可能性がある、と武庫川は考えるのである。
ちなみに、イエスの幼児物語は、どちらかというと後からの加筆部分と考えられているが、それもそのはずで、聖書執筆者たちは、あくまでもイエスをエリシャに似せたかったのだろう。
だから「殺人鬼エリシャ」に仮託して、「殺人鬼イエス」の話を持ってきたのである。
こうして考えると、福音書におけるイエスのエピソードそのものが、どこまでがオリジナルか、再検討が必要になってくるわけだ。
イエスは「エリシャの真似をする偽物」だった可能性がある。
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とまあ、こんな感じでエリシャの話、イエスの話を整理すると、意外とスッキリと話が見えてくるだろう。
結論はひとつだ。
あたしは、さいきょーーーーーう!
と聖書は言っているのである。
新時代だ。
(おしまい)