こどもとは何か 〜統一教会の養子制度を巡って〜
安倍元首相の銃撃事件からはじまり、宗教2世の存在とその過酷な環境、そして特に「統一教会」という宗教団体の日本での活動によって多くの被害が明らかになっている昨今ですが、ここにきて統一教会の教義システムのうち「養子制度」という新たな疑惑が取り上げられるようになりました。
その報道の端緒となったのはNHKクローズアップ現代の「旧統一教会・知られざる被害の告白」という番組で、この宗教団体では
「信者同士で養子縁組をあっせんする」
「むしろ養子を行うために妊娠出産する家庭がある」
という実態があったことを暴き出しています。
これらの事実についてツイッターなどでは実際に統一教会の信者家庭に育った2世などが、「養子縁組のあっせん」の状況など詳細を発言しており、今後疑惑へのメスが入ってゆくことでしょう。
当然、教義や組織によるあっせんは法に違反します。こどもの福祉の理念に反する行為として、処罰の対象となることも充分に予想される事態だと感じます。
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さて、そうした前提の上で、この記事ではあらためて「こどもとは何か」について整理したいと思います。
なお、あらかじめお断りしておきますが、今回の記事については「養子の是非」「こどもの福祉」「こどもの権利」「こどもの気持ち・感情」など、いろいろな立場の人がいて、いろいろな考え方の人がいることを踏まえた上で、私個人について
「ことの善悪、是非、判断をすることよりも、冷静沈着にものごとをとらえてゆく」
ことを執筆の方針とする、ということです。
これから書く内容は、「立場が違えば、それを読んでの感想や意見が大きく違う」というセンシティブなものです。
読み手にとっては、自分の置かれている状況からみて「感情をかきみだされる」ものとなったり「否定・非難したくなる」ような話も含まれているでしょう。
それくらい「こどもとは何か」という問題は、「すべての人がこどもであった」のに、捉えることが難しい大問題でもあるわけです。
それでもこの記事を書くのには、みなさんにあらためて「こどもとは何か」ということについて考えてほしいからです。その後、いろいろな意見や感情があらためて湧き上がってくる、そんな議論のとっかかりにできればと思います。
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<子殺しと親殺し>
現代においては「こどもは守られるべきもの」と考えられており、「こどもの福祉」が優先されるということは、漠然と理解されていると思います。
ところが、この「守られるべきこども」という概念は、現代においては実はあやふやです。
まず歴史的経緯をたどると、「間引き」と言われた子殺しは江戸時代には黙認されていました。「七歳までは神のうち」といったことばもあるように、こどもが健康に生育するかどうかすらあやふやだった時代においては、人工的に子殺しが行われていたという事実があります。
明治時代になると「堕胎罪」が制定され、妊娠中絶は罪になります。つまり、いったんは「こどもは生かされるべきだ」という考え方が登場し、「子殺しは罪だ」となるわけですが、現在では反転して「人工妊娠中絶は罪ではない」となっています。
1948年に始まる「母体保護法」の考え方によって、人工妊娠中絶は許可されるようになりましたが、ここで優先されるのは「母」側の大人の事情です。母体の健康はもちろんですが、母の経済状態なども勘案して人工妊娠中絶が行われている実状はみなさんも知ってのとおりでしょう。
つまり、「大人優先」であり「こども優先ではない」ことを私たちは知ることになるわけです。
とあるAmazonの部族では、お母さんが産んだ子を精霊として返すか、人として生かすかの選択権を持っているといいます。一見すると野蛮なようですが、日本での妊娠中絶件数は年間14万件くらいだそうですから、14万人くらいは殺されているとみなすこともできるでしょう。野蛮なのかな?
一方の「親殺し」についてはどうでしょうか。江戸時代までは親殺し(尊属殺人)は重罪でしたが、明治になってからでも刑法においては「尊属殺人は無期懲役か死刑のみ」とされ、より重い罪とされていました。その規定がなくなったのは1995年です。1995年からは、存続殺人に対する加重規定が削除されました。Windows95が出るまでは、親殺しは重罪だったのです。
<こどもの権利条約>
少なくとも「近代」まではこどもは未発見の状態で、それまではずっと大人が優先されていたため、今でもその傾向は続いています。それが「現代」になり、たとえば産業革命下の欧米では児童労働が禁止されたり、日本でも導入されましたが「学校」を設置することでこどもを労働から守る動きなどが発明されたわけです。
そして現代において「こども」とは何かを規定するのに大きく役立っているのはユニセフの「こどもの権利条約」(1990〜)でしょう。
この考え方を世界の先進国が取り入れることで、「こども」は守られるべき存在として新たに定義されたと言えます。
現代の私たちが感じている「こどもにだって権利があるんだ」「こどもにだって大人に近い権利を持っているんだ」という感覚は、この定義に準拠しています。
ただし、注意が必要な条文がいくつかあります。
◆ 第5条 親はこどもに適切な指導をして、国は親の指導を尊重する
◆ 第18条 こどもを育てる責任はまず親にある
これらの条文を読むと、「こどもは親・保護者の管理監督下にある」ということが手放されていないことがわかります。
宗教2世問題が複雑化するのはそのためです。「信教の自由」が憲法などで保証され、なおかつ「その親の考え方を尊重する」としているわけですから、宗教上の理由でこどもたちが何らかの方針を強いられることは「今の段階では許可されている」ということです。
もちろん、親の方針や指導が「違法であったり、不法であったり」する場合は、国は親から権限を取り上げることはできますが、そのためには該当する宗教団体や宗教行為が「違法であったり、不法であったりする」ことを認定、処罰してゆかねばなりません。自動的には事態が進まない、段階を減る必要がある、ということになるでしょう。
ここでも、実は「親が優先されている」ことがわかると思います。
<養子縁組>
私は日本の歴史や氏族の成りたちなどを研究する活動もしていますが、あなたやわたしを含むすべての「家」「氏族」は100%養子制度を使って存続しています。
100%と断言してもいいくらい、各家庭の系譜をみてゆくとかならず「養子が入っている」のです。養子が入らずDNA的に確実につながっているのは天皇家だけです。(真実かどうかは別にして、系譜上は天皇家だけが他家の養子で継いではいません)
養子縁組制度が必要だったのは、その家族集団が所有した「財産・立場」などを継承するためです。せっかく一族が築いた財産や地位が、子孫が途絶えることで消えてしまうのであれば「これぞ」と思った「こども」にそれを継承させようとするのは自然なことでしょう。
しかし、これは「家制度・家父長制度」に親和性の高い考え方で、たとえば純粋な共産主義的な発想だと重視されないかもしれません。生まれた子に平等に財産や権利が与えられる古代日本の「口分田」のような制度が続いていれば、養子制度は廃れていった可能性もあるでしょう。
キリスト教圏では「親子関係を人間が勝手に作るのは、神の意志に反している」と考えます。そのため養子制度は一時的に発展しなかったようです。
(実際には現在のキリスト教圏では「かわいそうな子を養ってあげたい」とか「老後に面倒をみてほしい」などの親側のエゴで養子が行われている傾向があるとされます。)
そのほか、養子は「制度」ですから、いろいろな思惑でなされます。戦争孤児が増えた時期には、そのこども達の福祉のために制度が使われたり、江戸時代のように身分を変更するために武士の養子になる形をとったりもしました。
太平洋戦争後の新民法における養子制度では、ようやく「こどもの福祉」という視点が重視されるようになってきます。現代の欧米でも「こどもを救う」という視点が主になり、たとえば匿名の出産によってもこどもが養子として他家に受け入れてもらえるような制度がある国もあります。
いままでいろいろな法制度なども見てきましたが、親や大人優先が顔を覗かせる中で、「現代の養子制度」が珍しく「こどものため」を思って運用されていることがわかります。(昔は違ったけれどね)
<親子の情愛>
「親子は愛し合うものだ、それが自然だ」という考え方は万人に当てはまるものではありません。ある種の幻想かもしれません。
嫌なたとえですが、レイプによってこどもが生まれてしまうこともあります。その場合、少なくとも父にとっては親としての情愛はないでしょう。産んだ母からみても「嫌な思い出は殺してしまいたい」と感じることだってあると思います。
私は昔教員をしていたので、精神的な障害を持っていてこどもを上手に養育できない親を実際に見てきました。彼や彼女らが「情愛を持っていなかった」と断言することは失礼の極みですから、そんなことは言えませんが少なくとも「めちゃくちゃ、びっくりするほどその情愛のしめし方は下手だった」くらいは言えるのではないか?と思います。
2022年現在、「親ガチャ」といった言葉が流行したりしていますが「親になる資格を満たさないと親になってはいけない」なんて発想を持ってしまえばそれはナチスドイツのような「優生学」のみたいになってゆくでしょう。
それこそ人間の権利で言えば「こどもを愛すのが下手な親でも、親になれる権利はある」と考えるのが、近代リベラルの主流でしょう。「こどもを愛せない親は堕胎させよ」なんて言えば、炎上ものです。
ということは「親子の情愛がない」「あるいは薄い」「あるいは感じるのが難しい」という状況はある、ということです。
その場合に、問題がある「親」に責任をとらせることは、部分的にしか可能ではないと思いますから、国家や政府、社会がどれだけサポートしてゆくかが重要かと思います。
この部分については、現代の日本はまったくもって不十分です。
<親と子は、”つながって”いるのか?>
「遠くの親戚より近くの他人」ということばがあるくらいですが「血縁」「DNA」はどこまで賛美されるべきものか、どこまで絶対視されるべきか、については多くの意見が分かれるところです。
それでも血縁は重要だ、と感じたい心情もわからなくはないですが、その血縁を大切にする感情のせいで「家庭がボロボロになっている」事例もたくさんあります。宗教2世もその中の事例に当てはまるでしょう。
「いっそ、まったくの他人だったら!」
と思うことも多々あるかもしれません。
さて、ここから先は私個人の私見ですが、「親子は実はまったくの別物だ」という説を唱えたいと思います。
DNAという情報だけを共有していますが、親子は自動的に”つながって”いるわけではなく、実は最初から最後まで”つながっていない”ので、相性が合わないことがあっても当然だ、という説です。
感情的には受け入れにくいかもしれませんが、面白い話です。
リンク先で説明しているのは、受精卵つまり「こども」の側と、母親「おとな」の側は、実は最初から最後まで膜で切り分かれていて、こどもの血とおとなの血は混じることもないので、つまり
”最初から最後まで別人”
ということです。DNA情報だけを共有しているので、それが「血縁」だと思うかもしれませんが、DNA情報を共有しているのは「生理で流れてしまった血」もそうだし「ティッシュにくるんじゃった精子」もいっしょです。
つまり、「赤ちゃん」が持っているDNA情報は、そんなに大事なんだったら、精子も卵子もずっと冷蔵庫にいれとけ、ということなんですね。
あるいはDNA情報がそんなに大事なんだったら、兄弟喧嘩もするな!おじさんやおばさんの介護もやっとけ!ということなんです。
今、新型コロナウイルスの流行でみなさんワクチンを摂取していると思いますが、あのワクチンは「mRNAワクチン」といってRNA設計図だけを書いてある何かがぶちこまれているわけですが、設計図だけなので、必要な部材は他から調達してくるため、生きていません。
ちょっとだけ赤ちゃんもそれに似ていて「DNA情報」は持ってきているけれど実際にはおかんから胎盤を通じて養分をチューチューして大きくなっているので、結局「こどもとはDNAの入った箱みたいなもの」だということです。
もちろん、mRNAワクチンとは違い「設計図だけ」ではなく、受精卵は細胞として生きてはいるのですが、最初から最後まで親とは別個体なんです。
そもそもね、ぶっちゃけて言えば、父親なんてそこらへんにぶちかましていてもこどもはできちゃうわけですから、飛び出した瞬間から別個体です。
もし、親子が”つながって”いるのであれば、ティッシュの中に出て行った数億のこどもたちとの関係はどうしたらいいというのでしょうか!
・・・多少話の方向が乱れてしまいましたが。
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とまあ、この話はいくらあっても紙面が足りませんので、いったんはこのくらいで終了としましょう。
こどもとは何か、大人との関係とは?というテーマは永遠の大問題ですが、今回取り上げた視点をいくつか見直すだけで、ちょっとは冷静になれるかもしれません。
さて、統一教会が「養子縁組」を教義の中に取り込みながら、それを「活用」していることは、逆に言えば「一番センシティブなところを、弱みとして突いてくる」という点で、かなり「いやらしい、悪質な」ものだと私は感じています。
結婚がしたい → 合同結婚式
こどもが欲しい → 養子縁組
という形で、弱みを持つ人、願いを持つ人を「取り込み」ながら、それを教義上のおしえなんですよ、として「演出」しながら現世利益を与えてゆく、かつその代わりとして金銭を巻き上げてゆくというのは、
”めちゃくちゃよくできた詐欺”
みたいなものです。
こうした行為は、禁止されてゆくべきだと感じます。
また機会があれば、補足など取り上げたいと思います。
(おしまい)