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山上容疑者と「カップラーメン」

 
「ぼんやり者のケア・カルチャー入門」という堀越英美さんの連載が、太田出版のWEBマガジンにあるのだが、最近とても「刺さって」食い入るように読んでいる。

 普段は、自分でこの世界の真実について探したり考えたりすることが多いので、もちろん他者の文章や考え、意見も読むのだけれど「客観的」な読みをすることが多い。

 ところがこの連載については、まさに「刺さる」のである。痛かったり、くすぐったかったり、なるほどそうだと思ったり、あるいはちょっぴり涙が出たり。

 それは、ちょうど今自分の関心が「ケア」という部分に向いていて、そのテーマがピタリと合致しているからかもしれない。


 ケアとは何か。ケアの本質とは、なんてことを言い出せば大げさで深いテーマになってしまうが、ムコガワ的にはもっとシンプルで平易なものだと思っている。

 つい最近、これは完全に又聞きで正確ではないのだが「心理学の専門家以外がケアなんてものに手を出すべきではない」みたいな言説を聞いて、内心立腹したことがある。

 いやいや、その心理学の専門家であっても、上手に・あるいは適切に「ケア」できているのか?臨床の現場では、その「ケア」の中身や効果も千差万別で、専門家による怪しげな「ケア」が跋扈している中で、いつから「ケア」は権威的なものになってしまったのだろうか。

 その点、この連載における堀越さんの視点は、ごくごく自然である。自らを「ぼんやり者」とおっしゃるくらいには、平易で、やさしいものとなっていることは充分伝わる。


 そもそもの本質論で言えば、「ケア」の究極的な根幹は、親なり家族なりが、自分の愛する者にそっと手を差し伸べるようなものだろう。あるいは、ケアする側も、実はどうしていいかよくわかっていないながら、それでも子供に寄り添ったり、抱きしめたりするような、そういうものがスタートであるはずである。

 方法論とか、技術論とか、心理学とか、そういう小難しいこと以前に、そっとその人の側にいるような、そういうものであればいいな、と思う。


 さて、「ぼんやり者」の連載では、いろいろな漫画・映画・小説といった「カルチャー」を通して「ケア」をみてゆく。

 個人的には『すずめの戸締り』や『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』『(アニメ)平家物語』を取り上げていた回が刺さった。それらについては、機会があれば整理してここでも取り上げてみたい。


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 けれど、今回はちょっと違う。第8回の

カルトを巡るお話が、なかなか考えさせられるので、そこからスタートしてみよう。

 カルトと家庭、という視点で記事は書かれるが、安倍元首相を襲撃した「山上容疑者と母親」との関係を読み解く部分がある。

”容疑者の子ども時代、母親の手料理よりカップラーメンが食べたいとせがみ、根負けした母親に作ってもらったカップラーメンをうまいうまいと言いながら食べたら、それまで見たことないくらいの勢いで母親に”ブチキレ”られたということ。”


 このエピソードを実は知らなかったので、「はっ」とした。母親の気持ちは、一般論としてわかる。「手間暇かけて作った料理ではなく、インスタントなカップラーメンのほうを”おいしい”と言われた」とすれば、母はショックを受けるかもしれない。

 かといって、それで「ブチキレ」るかどうかはまた別の次元でもあり、

「せがみ続ける子」と「ブチキレる母」

という、互いにコミュニケーションが苦手そうな母子像が、よけいにこのエピソードの悲哀を増幅させるのだ。


 さて、ここで話は大きく変わる。私の高校教師時代の教え子で、父子関係、あるいは母子関係で悩みながら大人になった女性がいた。その女性は、部活の顧問だった時代から、ある種の腐れ縁みたいなもので卒業後も10年くらい、関わることになった。

 その彼女が、こんなエピソードを話していたことを思い出したのだ。

 「あのね。小さいとき、私がお母さんを喜ばせて上げようと思って、『今日は私がごはんを作るね』と、その時自分に作れた精いっぱいの「カップラーメン」を作ったの。でもお母さんは「別に今は食べたくないから」と全然喜んでくれなかった」

という話である。

 これもまた、方向性は真逆であるものの「母子のディスコミュニケーション」を示している。

 小さい娘がせいいっぱい作ろうとした「カップラーメン」は、機嫌の悪い母からすれば「たいしたことのない、邪魔なもの」になってしまった。

 子どもらしいシンプルで簡便なツールである「カップラーメン」を仲介しているからこそ、山上容疑者と母、そして彼女と母はすれ違う。

 彼女は結局、(その一家にもいろいろあって)自分の人生も大きく狂うことになったが、詳細については割愛する。

 彼女に関してはもうひとつエピソードがあり、母親は何度も、テレビの子供番組のオーディションに彼女を参加させていたそうだ。

 学歴が高い山上一家において、彼が優等生として育てられようとした話と、どこか通じるものがあるかもしれない。


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 人は母からしか生まれてこないから、「母子は難しい」とも言える。

 私は、その母こそ、ケアされるべきだったのではないか?とも思う。堀越さんの言葉を引用してみよう。


”現代社会が「幸福な家庭」をイメージするとき、その空間の中心にはかならず母がある。無私無欲で寛大な慈母が家族を包み込み、他者との緊張関係を一切感じることなく、家族が一つに溶け合うような空間。新自由主義・資本主義における自己改善と競争のプレッシャーが増せば増すほど、そこから逃れられる癒しの場として、家庭と母性はいっそう神聖視される。だが、理想を達成するべく努力と競争を強いられる母を包み込む大きな存在は、家庭内にはない。

 もしかすると、「母」こそ、「母になる前に、自分が大きくつつまれるべき」だったのかもしれない。彼女が「母」となるもっと以前に。


 さて、「カルト」をめぐる言論は、いま日本社会でもっとも高まっている。このことについて、堀越さんの言葉は的確だ。


”あまりにも劇的で悲惨な事件を目の当たりにすると、どこかにいる優秀なヒーローが悪のカルトを倒して正常な社会に戻してくれることを、つい夢見たくなる。だが、個人として生きることを否定する価値観を注意深く遠ざけ、ケアの責任を誰かに偏らせることなく、個人がつながる方法を模索することでしか、あのような悲劇を防ぐことはできないのではないか。”

 個人がつながる方法、しか悲劇を防ぐことはできない。ケアとは、そもそも「個人がつながる」ことなのだから。


(了)

 

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