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強者を超えられない日本人の精神構造 〜下剋上とメサイアコンプレックス〜


 日本社会における「ジャッジメントを極端に嫌う」という精神構造の根源はどこにあるのか、ということを考えてゆくと、これは非常に根深い話なのではないか、ということがわかってきた。

 しかし、その本質的な「根っこ」の部分にゆくには、まず「表層的」なことをいくつか積み重ねながら発見する必要がある。

 そこで、前回、前々回の話と繋げながら、「ジャッジをせずに弱者のケアをしがち」というあたりをもう少し読み解いてゆこう。


 ある学校でいじめや加害があったとき、学校や教育委員会というのは「実際に詳細に何があったかを調査し、誰が加害者で誰が被害者かを明確にしてジャッジする」ということを嫌う、という事例は誰しも思い浮かぶことだろう。

 実際に学校はそういうことがとても苦手で、たいていの場合は「被害者だけが転校させられて、加害者についてははっきりとは断罪されず、なあなあになる」ということが起きる。

 これはよく校長あたりが「加害者にも人権がある」なんて言い訳をしながら誤魔化す手法が取られるのだが、そもそも「被害者の人権が蹂躙されている」という点については触れられないのがお決まりのパターンなので、要するに学校は「ジャッジメント」(断罪)をとても嫌うのである。

 もちろん、校長には懲戒権という強力な権力があり、加害者に対して「出席停止から退学まで」を強力に命令する機能が備わっているのだが、

■ 校長はその権限を使いたがらない

のではなく

■ そもそも事実確認、事実認定をはっきりしたがらない

というのが実態である。

 そこでなぜこういうことが起きるのか?ということを長年考えていたのだが、ひとつには「自分の(教師や校長の)責任でやったことじゃないので、しらんがな!と思っている」という仮説を挙げてみたこともあった。

 実行犯はAという生徒で、被害者はBという生徒だとして、教師も学校も校長もじつは「何もしていない(何も悪くない)」というのが事実だ。

 責務を追うのはAという生徒で、ぶっちゃけAとAの保護者には責務があるとしても、それ以外の人間には全員「追うべきものはなにもない」ので、だから学校は逃げ腰になるのだろう、と考えたわけだ。

 なるほど、それも一理あるだろう。

 しかし、それならさっさと警察にでも突き出して「わたしらは知ったこっちゃないので、そっちで捜査して煮るなり焼くなり好きにしてください!」と放りだしてしまえばいいのだが、学校現場でこの運用が行われた事例をほとんど知らない。

 こういうことは「生じない」のである。これも不可思議だ。

(いろいろ揉めたりこじれたりした結果、警察が介入せざるを得なくなることはたまにあるが、スタート段階で学校が当事者同士の責任として放り投げることは、ほとんど見知ったことがない)


 こうした謎を解く鍵として、前回・前々回に登場した「カウンセリング・カウンセラー」の概念を考慮すると、実は驚くほど明快に答えが得られたのである。

 以下、仮説レベルではあるが、その謎解きをしてゆきたい。

 前回、前々回の話は「被害を受けた人は、自腹でお金を払い、カウンセラーになだめてもらうが、そもそも加害者は、どの段階でもほったらかしでぬけぬけと生きている」ということだった。

 その時、カウンセラーは話を聞いても義憤にかられて、「よし私がそいつをとっちめてやる!」とは絶対に思わず、絶対にそういう行動はしない。

 それどころか「それは私の役目ではない」と、知らぬ存ぜぬを決め込み、そこではなく「被害者のケアが大事だよね」とそちらに集中する。

 なおかつ、「”それがカウンセラーの仕事じゃん、別にそれでいいんじゃない?”と世間の誰もが納得している」ということであった。

 (結果的に「加害者をとっちめてやる!」という言葉を発してくれる個人も、公的機関もいないから、加害者はずっと世にはびこっている、というのが前回、前々回のオチであった。これを弱肉強食で人権がない世界として説明したのである)


 さて、ここからひとつの答え合わせに入ってゆこう。ズバッと言ってしまえば、この時、登場人物たち(学校、教育委員会、カウンセラー)は

『自分より下のものを見て行動している』

と言える。

 これはとても大事なポイントだ。日本人の大抵は「自分より下のもの、自分より弱者であること」をものすごく意識しているのだ。


 だから「自分より下のものを、自分より弱者をケアする」ということには、めちゃくちゃピントが合い、解像度が高くなる。

■ 学校の場合、加害者にはピントが合わないのに、被害者にはピントが合う。被害者の処遇について一生懸命考える。

■ カウンセラーの場合、クライエントという弱者、下のものにはものすごく解像度が高くなるが、加害者のことはてんで気にならない。

ということが起きるのだ。

 この時、全員がある程度は善意で「この可哀想な人をなんとかしてやらねばならない」とは思っている。そこは嘘ではない。

 いじめられた生徒はなんとかしなくてはいけないと思っているし、クライエントの状態を良くしてあげたいと心から思っている。

 ところが、

「自分より強いものに対しては、どう処遇していいか、さっぱりわからない」

のである。ここがめっちゃ面白い、興味深いところだ。

「可哀想な相手にはビビッとくるが、可哀想じゃない相手には、どうしていいかわからない」のである。

 さて、ここで、「自分より強いもの」とはどういうことか。

 まだ読者はピンとこないだろうが、自分が学校の教員や校長や、カウンセラーの立場になったと仮定したら、その怖さが想像できるだろう。

■ いじめの加害者を断罪しようとしたら、その暴力やその攻撃は、自分(教師や校長)に向いてくる。
■ 虐待親にアプローチしようとしたら、その反撃は自分(カウンセラーや医師)に向いてくる。


のが本能的にわかるのである。だから怖いのだ。


(もっと言えば、AとB間の話なのでしらんがな、と第三者でいられたものが、自分たちが介入することで当事者になってしまうことも怖いのかもしれない。Aと教師、Aと校長の話になるからである)


 それに立ち向かうには、少なくとも「法律的にも、態度の上でも、肉体的にも自分のほうが強い」という確信がなければ、戦えない。

 教育者や福祉職、心理士などは基本的には「心優しき」人が多く、「攻撃者に立ち向かう、というベーシックな戦力」は持ち合わせていないのである。MPはあるけれどHPはあまりない職種なのだ。

 だから、相手が強者であると察知した瞬間、ジャッジメントから逃げるのである。


 心理的には「メサイアコンプレックス」という行動原理があり、「自己肯定感の低さを他者を救う行動で補ったり、誰かを救うことで優越感を満たす」
ということが起きがちだが、まさにこの時、彼らはそれに陥っているのだ。

 強者と戦うことを選択するよりも、弱者をヨシヨシしているほうが、自らの心が安定するため、そちら側にしか寄らないのである。


 であれば、前回の話のように「人権が侵害されている現場があれば、それをジャッジできるように国家がシステムを整備する」必要があるだろう。

 それはすなわち、警察力の強化である。

 しかし、時には警察ですら「メサイアコンプレックス」側の心理状態に陥ることがある。

 冤罪を生んだ袴田事件などもまさにそうで「弱者の犯行を仕立て上げることにやっきになるほうが、難解で手間のかかる真犯人を突き止める行為よりも簡単で心地よい」のである。

 自分より下のものを発見したとき、自分よりも強者(まだ見ぬ犯人)と戦わず、弱者を自らコントロールするほうに落ちてしまう人間は、警察にもいるのだ。


 その意味では「難解なるもの、非道なるもの、強敵なるものを倒す」という強者に立ち向かってゆくような下剋上の思想が、日本では薄くなってしまうのは、これも理由がある。

 それはシンプルで、「下剋上を志向するものは、自分の上司や組織の上層部にも立ち向かうから」である(笑)

 学校も警察も、医療機関も、いやはや日本のどこであっても、組織はそういう人間を嫌ったり、じわじわと閑職に追いやりがちである。

 であれば「戦おうとせず、下の者ばかり見る人間」が増えるのは、自然な風潮と言えるだろう。


 こうして考えてくると、日本社会の病理というのは、かなり根深いものがあるということになる。

 一朝一夕には解決しないが、せめて自分がこうした事態に巻き込まれそうになったときに、これらの構造を理解しておくのは重要だ。

 「弱者にしか目が向いていない人間」にも、もちろん有効活用すべき用途はあるが、「強者に立ち向かわなくてはいけない」場面に、相談相手を間違うと悲惨な結果になる、ということでもある。

 気をつけなはれや。


(おわり)




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