「脱宗教」の教科書1 〜真理・真実とは何か〜
「脱宗教」という立場で物事を考えたり、あるいは人生を歩んでゆく上で、まずはいちばん平たい、簡単なところからお話を始めてみたいと思います。
それは「神様」がいるかいないかで、何が変わるのか?ということです。
もし神様が存在するのであれば、人間は、その神様が考えていたり、命令することに従って生きてゆかねばなりませんよね?なんと言っても相手は神様ですから、逆らうわけにはゆきません。
逆に、もし神様がいないのであれば、人間はそうした神々の命令を聞く必要はない、ということになるでしょう。
これは、簡単なようでいて、実は大きな違いです。それによって人間の生き様は180度ひっくり返ってしまうかもしれないような大きな出来事だとも言えるかもしれません。
実際に、「ある宗教」を信じている人たちは、それを基準にして人生を歩んでいますから「これをしなさい」とか「あれをしてはいけない」ということを固く守りながら生きています。それが「正しいのか、間違っているのか」ということは、「信仰している」彼らにとっては、周囲が何を言おうが「真理真実」なのだ、ということになるわけです。
みなさんの中にもし宗教2世がいれば、親の信じている宗教の教義によって「これが真実なので、こうすべきだ」ということを刷り込まれながら育ってきたことでしょう。そして、大人になったり、その宗教から離れて「それが偽りであった」とのように、今は感じているかもしれません。もし、それが偽りであれば、従う必要はないんだ!と自由を感じている人だって多いことでしょう。
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「神様はいるのか、いないのか」「真理真実は何か、どれか」
・・・こういったテーマは、宗教においては重要です。あるいは宗教に類似したマルチ商法やインフルエンサーの言説、オンラインサロンなどでの「情報」についても、同じくこのテーマが重視されていると思います。
たとえば、「市販のものより、うちの○○会の商品のほうが良いものだ」という話や「世間の誰も知らない陰謀論が、実は存在する」とか、「メンバーだけに、より良き方法をお伝えしよう」なんて形で、”ダメな何か”と”そうではない良き何か”が対比されるのが、常套パターンということになります。
ところが、ここでズバリお伝えしておきますが、この「”良き何か”VS”悪しき何か”」という対立構造こそが、宗教に限らず何ものかに騙されたり、心を動かされ支配される「イロハのイ」である!ということなのです。
こうしたAかBかの対立構造は「善悪二元論」と呼ばれたりしますが、自分たちを「善」、他のものたちを「悪」とすることで、仲間内の結束を図ったり、そうさせた側が「思い通りに人を動かす」ことができるようになっています。
ですから「対立構造」や「善悪二元論」に巻き込まれてしまったら、もうその時点であなたの心は、少しずつ支配されている、と考えてよいでしょう。そう、誰かに支配され始めているのです。
じゃあ、ほんとうのところはどうなのか?というと、少なくとも2つの対立構造で示されるほど、世の中は単純ではありません。もっともっと複雑怪奇で、グラデーションがあります。ある商品ひとつにとっても、「A社のものもいいし、B社のものもいいし、C社のものは特徴が違っていて、D社のものは品質は落ちるけど安い」とバラエティに富んでいるのが実際の現実だったりしますよね?
インフルエンサーが言うところの「僕たち私たちだけが!」という話は、実は100人くらいの別々のインフルエンサーがバラバラなことを言っているわけで、事実は100通りあることになります。もし、本当に真理真実が一つなら、「100人のインフルエンサーが、みな同じことを言う」のが正解です。けれど、実際にはそんなことはありません。
宗教とて同じで、あれほど宗派がいろいろあったり、「なんとか教会」とか「なんとか派」があったり「ほにゃらら宗」があったり「はにゃらら宗」があったりするのは、本当は不思議なことなのです。彼らは等しく、バラバラなことを言っています。今のところ、正解にたどりつく確率は同等なのです。
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「AかBか、こちらが正しいのだ」という言説は、こんな風にそもそも怪しさを含んでいるわけですが、ここで、「詐欺師が使うテクニック」を紹介しておきましょう。
一般的に詐欺師は「9割の真実の中に、1割の嘘を紛れこませる」と言います。9割の真実を見て、カモたちは「この人は信頼できる」と思い込むのですが、そりゃそうでしょう。その情報は9割分は、完全に正しいことを言っているわけですから!
これまた一般的に、「このジュースの90%は生絞り果汁で出来ています」と書いてあれば、ふつうの人は「ああ、このジュースはほぼ果汁なんだな」と思い込むでしょう。
しかし、詐欺師は、残りの10%に「胆汁」を放り込んでいるかもしれません。あるいは「豚汁」を放り込んでいるかもしれないのです。
善悪二元論に丸め込まれてしまうと、90%も果汁が含まれているのであれば、「それは果汁だ」と思い込まされます。しかし、実際は胆汁だったり豚汁だったりするわけで、けして「真理真実」とは言えません。
従って、ほんとうの正解は、「胆汁入り果汁」であり、「豚汁入り果汁」なのです。
ついこの間、学校給食に漂白剤を紛れ込ませた悪い先生が捕まりましたが、わずかでも漂白剤の入った給食を食べることはできません。でもその給食の99%くらいはふつうの給食なのです。そう考えると、「善悪二元論」がいかに恐ろしいものかわかると思います。
今日のまとめは、とてもシンプルでわかりやすいものです。私たちの生きている世界は、色とりどりのバラエティに富んでいて、けして「二元論」で割り切ることはできません。
もっともっとバラバラで、いろんな要素を含んでいて、それは「時によい部分もあるし、悪い部分もあるし、その割合はグラデーションのように濃い薄いが広がりを持っている」ということなのです。
だから「神がいるからこうだ!」とは言いきれません。「神がいてもうまくはいかない」とか「神だって悩んでいる」とか「神は今病気で弱っている」とか、そういうことだってあるかもしれません。これは神さまの居場所を覗いてみないとわからないことです。
あるいは「この宗教が絶対だ」ということもそうかどうかわかりません。「その宗教は絶対かもしれないけれど、今リーダーになっている人物は最悪だ」ということだってあるでしょうし、「その宗教は9割正解だけれど、1割は豚汁だ」ということだってあるでしょう。
ぜひそうした見方を身に付けてほしいと思っています。
だとすればみなさんの人生が「良いときがあったり悪いときがあったりしてもOK」だと言えるからです。人生だって、バラバラに、グラデーションがあるのが普通です。
みなさんの排泄物にだって、数パーセントの胆汁が含まれているのですから、それで当たり前なのです。
(つづく)