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”無敵の人”と”忠臣蔵”

 安倍元首相銃撃事件から数日が経つが、事件の内容、背景が明らかになるにつれて、あまりにも多くの裏事情が出てきて、事態は混迷を極めている。

 実はこの事件、最初から警察の談話として、「犯人は安倍氏の政治信条以外の態度に不満を持っていた」という発表がなされており、蓋を開けてみれば見るほど、その言葉が正しかったような話しか出てこない。

 なおかつ、次第に明らかになってきた情報によって、多くの「界隈」が振り回され、また盛り上がっている。

 一番初期に出てきたのは「Y容疑者は、統一協会信者を親に持つ”宗教2世”である」という話だった。
 これで一気に、SNSなどの宗教2世界隈は騒然となった。

 次に出てきたのは、「Y容疑者は親から虐待を受けていたり、父や兄が自死した」という話だった。
 これでSNSの「虐待・被虐児」界隈も騒然となった。

 あるいは同時期に「Y容疑者が恨みを募らせたのは、統一協会であった」という話も出てきた。霊感商法などで有名なカルトの登場で、カルト界隈、悪徳商法界隈も騒然となった。

 それから「岸元首相・安倍晋太郎・安倍晋三」と続く、「宗教との癒着」という話もどんどん明らかになってきた。これで政教分離界隈や、ネトウヨ界隈も騒然となった。


 まあ、細かいことはまだまだあるし、まだまだ出てくるが、「アベガーが騒然となった」とか「反アベガーも騒然となった」とか、「モリカケ問題が吹っ飛んだ」とか、「憲法改正も韓国宗教に仕組まれていたのか」とか、もはや陰謀なのかデマなのかよくわからないレベルの話もわんさか出てきているので、ここでは逐一取り上げるのはやめておこう。

 シンプルに言えば、これまで日本が「あまり顧みなかった」ことや「後回しにしてきたこと」「見ぬふりをしてきたこと」などのツケが、安倍元首相銃撃事件によって、一気に表沙汰になった、ということなのだろう。

 そしてこの銃撃そのものが「暗殺」と呼んでいいのか「テロ」なのか、「個人的恨み」なのか、「逆恨み」なのか、「順恨み(それなりに合理性があるもの)」のかも、よくわからないぐっちょんドロドロの状況となっており、それぞれがそれぞれの立場を背景にしながらポジショントークを繰り広げるというカオスな展開になっているのが現実である。


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 人間というのは善悪二元論で物事を考えるのが好きだ。むしろ、細かな事情を精査してより分けて考えるのはとても苦手な生物で、「敵か味方か」「善か悪か」という明解なカテゴライズを非常に好む。

 だから「安倍さんは善であった」「犯人は悪であった」「安倍さんは悪であった」「犯人に同情の余地がある」といった○×ゲームで考えるほうが、どうしても楽であることは否めないだろう。

 しかし、現実問題としては安倍晋三という人間には数え切れないくらいの功罪が入り乱れているし、Y容疑者にも数え切れないくらいの事情が入り乱れて、こうした結論になっているのが答えであろう。

 それらを受けて、ありとあらゆる意見や感想が表出されてくるのが、日本社会にとっては良いことなのかもしれない。それくらい、たまっていた膿はひどいものだったのだろう。


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 さて、作家の橘玲さんは、今回の事件を「無敵の人」の延長線上で考えている。

 橘さんの意見では、私もよく引用する「京都アニメーション放火事件」と「大阪クリニック放火事件」を挙げながら、すべてを失った持たざる者の起こした事件と見ていることがわかる。

 ただ、

でも示した通り、これまでの「無敵の人」事件と今回の事件は少し異なるところがある。相手が「誰でも良かった」ということと、「統一協会関係者を狙った」ということは、かなり差異がある。

 Y容疑者がすべてを失った無敵の人に類する立場であったことは、当然理解できるが、その矛先は無差別には向いておらず、本来の敵(あるいはその近く)を狙っているからだ。


 私は、この事件を「無敵の人×忠臣蔵」の視点で見ている。

 そうだ。安倍元首相銃撃事件は、「仇討ち」だった、とするのである。少なくともY容疑者側サイドの意見では。


 SNSなどを見ていると「Y容疑者が恨むべきは信者だった母親ではないのか」というものが一定数あるが、おそらくYからすれば「そんな母親になってしまったのは教団のせいであり、母親も被害者である」という考えが成り立つ。

 「Y容疑者は教団を襲うべきだった」というものもあるが、実際に彼は供述で教団の本丸を襲撃する計画を立てていたこともわかってきている。それらを順番に計画する中で、つながりが濃厚であるという安倍氏を狙ったわけだ。結果的に、安倍家と統一教会のつながりが、一定以上にあったという話も聞こえてくるだけに、(岸氏が統一教会を反共産主義のために利用した、日本に持ち込んだという話もある)犯人側の論理から推測すれば、「めちゃくちゃ飛躍して、まったく無関係な相手を選んだ」とまでは言えない可能性があるだろう。

 そうすると、Y容疑者の中で起きたことは、自分の行動は「家族崩壊に対する、あだ打ちである」ということになる。

 あだ打ちというのは「私的救済」の最たるものだ。私的救済とは『自分で自分を救う』ということだが、実は法治国家である日本では、これは認められていない。

 私もふだんは企業活動をしているのでよくわかっているが、いったん納めた商品を「代金を払ってくれない」からといって取り返してはいけないのだ。取り返したほうが犯罪者であり、払わないほうは犯罪者ではない。それが法治国家である。

 どういうことかというと、「どちらが悪いのか」とか「救済措置はどうするのか」といったことは、国家が法に基づいて裁くのだ、ジャッジメントするのだ、ということが近代法治国家の建前になっているのである。

 だから「公的救済」「公的ジャッジメント」にゆだねよ、ということが、法的には正義なのである。


 ところが、公的ジャッジメントと公的救済が機能していないと、人は追い詰められる。誰も救ってくれず、公的機関でさえ自分を無視するような形になるからだ。

 父が自殺、一家離散、破産、兄が自殺、ネグレクト・虐待などが積み重なり、公的ジャッジ、公的救済など望めなかったY容疑者の生い立ちから考えて、「安倍首相という公的存在の象徴者が、あっち側についていたのか!」という真理真実を発見した時は、そりゃあ、安倍氏をターゲットにしたとしたのもわからなくはない気がする。

 公的存在が、あっちの味方だったのである!これを知った時の衝撃と、絶望は、人をたやすく修羅にしたのではないか?


 公的救済が望めないならば、人は自力救済に走るしかない。それは戦国時代の始まりであり、かの豊臣秀吉ですら「総無事令」という命令を出して止めたくらいのものだ。
 総無事令とは領地紛争をめぐる諸武将の私戦を禁じ、ジャッジメントをこの秀吉に預けろ、という命令であった。

 しかし、残念ながら、Y容疑者の中では、自力救済がスタートしたのである。


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 忠臣蔵というお話、つまり赤穂事件はよーく考えると理屈が合わない箇所がいくつもある事件だった。

 人はシンプルに二元論で物事を考えたがるので、「悪人の吉良」「かわいそうな浅野」「仇討ちの大石」という見立てをするが、実際に起きていたのは、

◆ 公的にも私的にも、法を破って斬りかかった浅野匠頭 (悪)
◆ 吉良上野介には「いじめた」等の裏事情があったか知らないが、浅野切腹を命じたのは徳川綱吉
◆ 当時の法である「喧嘩両成敗」を適用しなかったのは徳川綱吉
◆ 浅野は、最後まで斬りかかった理由をわざと言わなかった。
◆ 恨む相手は、本来ならジャッジメントをあやふやにした綱吉
◆ しかし、大石ら四十七人は、徒党をくんで吉良を襲撃した

ということになる。

 四十七人は、実は「主君が切腹させられた」恨みのために事件を起こしたのではなく、あくまでも「喧嘩両成敗」という法が執行されず、吉良のみ放免されたので、「両成敗」を実行したのである。

 両成敗を自力で行ったわけだ。

 さて、そもそも、当時から子が親の仇を討つことは「仇討ち」として理解されていたが、家臣が主君の恨みを晴らすのは、たんなる怨恨であるという説もあった。(家臣とのつながりは、親子のつながりより弱いということだ)

 そのため大石らが吉良成敗を成功させた後も、幕府や世間では議論が絶えなかった。これは褒められる行為なのか、それとも異常な違法行為なのか、よくわからなかったのである。

 当時の元禄時代の人も「善悪については良く分からん」という感想を残している。

 最終的に、四十七士が「忠義」という形で顕彰されるようになったのは、明治以降であるらしい。


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 この赤穂事件を思い起こすのは、「そもそも赤穂事件はよくわからん事件であり、しかし結果的に仇討ちだけが忠義とされた」ということが、今回の「よくわからない安倍人脈や統一教会の暗躍があり、結果的に子が親の仇討ちだけを行った」という点であろう。

 もしかするとはるか未来には、「忠義よりも重要で大事な概念である”親子の孝”を実現した事件であった」なんてものすごい理解がなされるかもしれない、そんな事件になりうるということである。

(未来人のことはわからないけれど、子の親を思う気持ちばかりが優先して取り上げられる可能性は充分ある。もしかすると未来では「日本三大仇討ちのひとつ」として数えられてしまうかもしれない。)


 とまあ、Y容疑者が親との情愛について「孝」を実践したのかどうかは脇へ置いておいても「自力救済を行った」ことだけは確かである。

 そして自力救済を行ったことにより、彼の行動が違法であることは断言できる。

 ただ、自力救済が発生するのは、公的救済と公的ジャッジメントが機能不全を起こした時だ、ということは覚えておいて損はない。

 現代日本では、公的救済と公的ジャッジメントは極めて怪しい状態に陥り始めている。

 だから、第二第三の自力救済事件は、かならず起こるのである。


(了)

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