「脱宗教」の教科書2 〜ズバリ、神様はいるのか〜
前回は「この世界を二元論で捉えようとするのは危険だよ」というお話をしました。そして、「詐欺師は9割の真実の中に1割の嘘を紛れ込ませる」ということもお話したと思います。
そこで今回は、前回とも関連しますが「神様はいるのか」ということをズバリお話したいと思います。
ところで、みなさんはもう、「二元論」には惑わされないし、「9割」の真実だけにも惑わされない思考パターンが出来ていると思います。その上で、「神様はいるのか」問題について解いてみようとすれば、どんなところに気をつければいいでしょうか?
たとえば、宗教の勧誘ではこんな言い方をされる場合があるでしょう。
「この世界を作った神様がいると思いませんか?そうでないと宇宙や地球、生命がどうやって誕生したか説明がつかないでしょう?」
みたいな感じです。これはキリスト教系の宗教でよく用いられる話法です。
聖書には、「神が天地を創造した」と書いてあるので、宇宙を作ったのは、ほら!天の神様ですよ!というわけですね。
さて、ここで恐ろしいぶっちゃけ話をしますが、実は現在の科学ではこの「宇宙の外部に神がいるかどうかは証明できないし、わからない」ということになっています。マジで神様はいるかもしれないのです。こりゃあ、たいへんなことですね。
そもそも宇宙が何か「神様が作った箱」のようなものであるとしたら、その箱の内部で閉じ込められている僕たち私たちは、その外側のことを知ることはできません。その意味で「神がいるかどうかは、わからない」と言えるのです。
しかし、少しだけ余談を話させてもらうとすれば、「宇宙のはじまり(ビッグバン)から、だんだんと宇宙は膨張している」ということはわかっているそうです。つまり、箱は最初は小さかったのに、大きくなりつづけているのが観測されているのだそうです。
ということは、「最初の時点」が存在するということになります。誰かが「最初に何かしたのだろう」と推測することは全然不自然じゃないですよね?
私は、その意味では「なんかよくわからんけど宇宙を作った神がいるだろう」と思うことは全然間違っていないし、大丈夫でOKでかまわないと思っています。その神様を追い求めることが、科学の発展をもたらしたのですから。
さて、ここで前回の話を思い出してみましょう。「神様がいるだろう」ということが9割の部分です。観測されたデータとも矛盾しません。箱を作ったヤツがどうもいるような感じがするからです。
さて、ではキリスト教系の宗教では、どんなテクニックを使ってあなたに話しかけているか、推理してみてください。
・・・そう、それは残り1割の部分に隠してあるのです。
「神様がいるかもしれない」「宇宙が実際にはこうだから」
という部分が9割の真実だとしましょう。残り1割のところで、その勧誘者はこう言っているのです。
「その神は、聖書の神様と同一人物だよ」
と。ここがひっかけ問題なのですね。
神様がもし本当にいたとしても、それが「聖書の神と同一」とは証明できません。もしかしたらまったく違う神かもしれないのに、そこに独自の信仰紛れ込ませているわけです。
このテクニック、聖書に詳しい人なら、聖書の中で随所に使われていることをご存知かもしれません。あ、もしかしたらあなたも、それに気づいていないかもしれませんね。すこし脱線しますが、紹介しておきましょう。
聖書には「モーセ」という預言者が出てきます。モーセはいろいろあってエジプトの王子さまの待遇でしたが、エジプトを追い出されます。本当はエジプト人ではなく、ヘブライ人(ユダヤ人)だったので、まあそれがバレるわけです。
これまたいろいろあって、自分の本当の出自をしったモーセは、ヘブライ人の神である「ヤハウェ・エホバ」の預言者になります。そして、エジプトの神が間違っていることを「対決」で示すのです。
このエジプトの預言者対モーセの戦い「10番勝負!」は、対決シリーズとしてはけっこうおもしろいのでぜひお暇なら聖書を読んでみてください。ナイル川の水を血に変えたり、突然雹が降ってきたりします。
エジプト側の預言者もけっこう頑張っておなじような天変地異を起こすのですが、最終的にはモーセの繰り出した技に負けてしまう、というオチが続きます。
最終的に、エジプトの王は負け続きで、モーセたちヘブライ人を「勝手に出ていけ」と認めます。その後で有名な「海が割れるのよ〜」のシーンになるのですが、それはまた別のお話。
さて、ヘブライ人の末裔であるユダヤ人のユダヤ教・キリスト教などでは、「ヤハウェ・エホバ」という神が本物の神であり、エジプト人が崇拝していた神は偽ものなので、最後には「ヤハウェ・エホバ」の預言者であるモーセが勝ったんだ、と説明します。
ところが、聖書には実はそんなことは書いていないのです。ここに9割の本当と1割の嘘が紛れ込んでいます。
聖書には何が書いてあるかというと、「中東の地には、たくさんの神々がいて、ヤハウェもいるし、カナン人が崇拝していたバアルという神もいるし、エジプトの神々もいる」とまず書いてあります。
エジプトには鳥の神様とか猫の神様とかいろいろいたのを、ツタンカーメンのお話などでご存知と思いますが、そのことです。
そして聖書に書いてあるのは、あるいは、聖書の筆者が主張しているのは実はこういうことなんです。
「ヤハウェは、それらの中で、いちばん強い」
「俺は神々の王になる!」
みたいな感じ!
聖書の時代では「たくさんの神がいて、ヤハウェが最強なので、だからオレに従え」ということが主張されています。ところがキリスト教ではちょこっと話をズラして、「ヤハウェが真理真実の神で、それ以外は偽もの」と言い出しているのです。
なかなかの高等テクニックですね。ボーっとしてたらひっかかります。
このパターン、特にキリスト教系ではテッパン!頻発するパターンですのでぜひ覚えておきましょう。
イスラム教も、元ネタは聖書で同じなので、パターンを踏襲しています。
「聖書に書いてあることは真実」
「聖書に書いてある預言者はみなほんもの」
「聖書を信じなさい、ほれ信じなさい」
というのは、キリスト教、イスラム教系に共通です。神様も「ヤハウェ」「アラー」と違うように思えるかもしれませんが、同一の神です。同じです。
さあ、ここまでが9割一緒です。残り1割に、各自の主張をぶち込んできます。
「いちばん最後の預言者がイエスキリスト」→ キリスト教
「いちばん最後の預言者がムハンマド」→ イスラム教
「いちばん最後の預言者が文鮮明」→ 統一教会
「いちばん最後の預言者がモルモンの子であるモロナイ」→ モルモン教
「イエスはまたやってくる」→ エホバの証人
みたいな感じでしょうか。ざっくりですが。
『みちのく一人旅』という演歌がありますが「お前が俺には最後の女〜♪」です。若い人は知らんか。
最後の預言者が誰かによって、教義が変わるのですね。
さあ、今日のまとめです。神様がいるのかどうか。それは「いる」と考えても間違いではありません。「いる」と考えた方が説明がつくことだってあるかもしれません。
けれど、その神様が「この宗教、あの宗教が言っている神と同一人物かどうか」には注意が必要だ、ということです。
そこはかならず、うまくごまかして説明がなされる重要ポイントだからです。
そこでコロっと丸め込まれてしまうと、あとは洗脳される一方です。だから、
「神様は、いつも自分のこころがきめる」(みつを)
くらいに思っておくのが大事です。え?みつを知らない?
(つづく)