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多文化共生はなぜ実現不可能なのか
移民問題がヨーロッパを騒がせているというニュースは、もう数年前から我々の耳に入ってきており、また昨今ではクルド人問題など、日本国内における移民的な存在や諸外国人との軋轢が頭を悩ませることになっているのは、すでに承知のことだろう。
奇しくも西尾幹二さんが亡くなられ、彼がずっと訴えていた「多文化社会は実現しない」というテーマは、現代日本のこれからの喫緊に迫った課題として捉えられることになるだろう。
ではなぜ「多文化社会は実現しない」「多文化共生は成り立たない」と言えるのだろう。
現代リベラルにおいては「みんな仲良くタケモトピアノ!」というお題目はいつも万人から「そのとーり!」と賛成されてきたが、実はどうもそうではない、ということが実態として明らかになりつつある。
思えば80年代を子どもとして過ごしてきたムコガワは、いわゆるそれまでの差別的ニュアンスを含んだ「だれそれさんの子どもとは遊んではいけません」みたいな親の発言を「全否定」する雰囲気の中で育った。
そういうことを言うのは反リベラルで差別主義者であり、古い因習やら家柄を重視するような、悪い親の発言である、と信じて疑わなかったのである。
ところが2024年の現在、そうした単なるラベリングの上での「誰それさんの家の子どもとは遊んではいけません」という禁止命令こそ出さないものの、「あの子はちょっと気をつけたほうがいいよ(メンヘラだから)」とか「あそこの家はネグレクトだから、気をつけたほうがいいよ」とか「あそこの家はモンスターペアレントらしいよ」といった、ラベリングどころか「実際の言動によって、関わり方をコントロールしなければならない事例」は増えているような気がしている。
外国人が多く住んでいる地域ではなおさらで、そこに宗教問題が関わってきたりすると、どうもいけない。「理想の上での多文化共生」は、「実態としての異文化への恐れやトラブル」の前に塗り替えられようとしているのである。
あれだけ一生懸命、衛生上の理由もふくめて火葬を推奨してきたのに、イスラム教では土葬でなくてはいけないと地域住民との軋轢を起こしたり、多文化や異文化は、21世紀へ向けて日本全体の課題として取り組んできた内容も一発で破壊してしまうような、そういうマイナスの作用も持っているのではないか?という懸念が生じ始めているのだ。
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さて、あまりにも個々の事例を取り上げてゆくと、それは「個別の話だ」ということや「それは行き過ぎると差別だ」という本意ではない炎上の火種になるので、そもそもの原点に立ち返ってみよう。
なぜ「多文化共生」はうまくいかないのか、という大原点について、今回は説明してみたい。
実は文化というのは、その根底に「われわれと、あいつら、を分断する機能」を持っている。ある集団に特有の文化は、他の集団と異なるからこそ「文化」として認知認識される。
たとえば人間はみな物を食べるので「食べることそのものは文化」ではない。日本人でも北欧人でも、アフリカ人でも食べるからだ。
あるいは人間はみなウンコをするので「ウンコをするのは文化」ではない。
ところが、そこにグループによる差異が生まれると、それを「文化」と呼ぶ。
米なのか麦なのかトウモロコシなのかジャガイモか、粒なのか粉にするのか麺なのか、などそうした「差異」が文化の根底だ。
ウンコを紙で拭くのか、かきべらで掻くのか、トイレなのか川なのか、そうした差異もまた「文化」を形作るのである。
さて、食べ方とウンコくらいなら「可愛いものだ」と思っているかもしれないが、インド人は左手を不浄の手として、けして飲食には用いず、ウンコのときに用いる、という。
そこで、インド人が外国人と左手で握手をしようものなら、実は侮蔑・嫌悪しているということになってくる。ほらもう、そこに紛争の火種があるわけだ。
このように「文化」はそもそも論として「身内と他者」を分ける機能があり、その「文化的差異によって結束したり敵対したりする」機能を内包している。なので、ぶっちゃけて言えば「多文化」を認める時点で、争いの火種はもう、すでに抱えていることになるのである。
もちろん、理想的な多文化共生は「互いに相手の文化を認める」ことだが、それは実際にはまたしても機能しない場合が多い。
たとえば中国大陸では猫や犬を食べる文化があるが、日本人はそこで多文化理解より先に、嫌悪感が生じるだろう。欧米からみたクジラ食しかりである。
また、「相手を認めない」ということそのものが文化アイデンティティであることも多い。それは宗教化する場合が多く、「異教徒は滅びるべし」と最初から教えに組み込まれているなどがその例だ。
「誰とでも仲良くしよう」という現代リベラル文化の側で育った人が、「異教徒は滅びるべし」という文化の側の人間と出会ったとき、「リベラル側はその宗教を理解し、受容して死ぬべきか」というもはやトンチンカンな問いが生まれてしまうのは、そもそも「文化」とはなにかを理解していないからである。
さて、文化が「互いの差異を際立たせるもの」である以上、むしろそれが文化的アイデンティティの根幹である以上、共生はなりたたないのだが、なぜそれが「現代リベラル」において「さも良いもの、すばらしいもの」と思われてきたかについては、ひとつの「まやかし」が潜んでいる。
その「まやかし」とは、端的に言えば「多文化とは、先進国による未知の文化の発見と保護」が学問上の原点である、ということである。
すこし文化人類学や社会学をかじった人ならすぐわかると思うが、要するに「文化を発見する」というのは「先進国の学者が、未開の文化文明を発見して、これは貴重なサンプルなので残さなくてはならない」というたぐいのものである、ということなのだ。
つまり、動物園が動物を収集して保管保護するように、コレクションの一種なのである。
「未開の文化は、自分たちの先進的文化とは違うけれど、レアなので大事にしないと、先進化してしまったら消えちゃうぞ」という感覚が、源流なのである。
なので「多文化大事だよね」というのはコレクター的にはまさにそのとおりなのだが、イスラム教徒がアメリカのツインタワーに飛行機を突っ込ませたように、「異文化が自分たちの先進国文化を否定して、ぶっ殺しに来た場合、一瞬で手のひらを返さなくてはいけない」というヤバさをも内包しているのである。
「歯向かうのならぶっ殺すぞ」というのが、欧米流の「後ろ手に隠し持ったナイフ」なのである。
そういう意味では欧米リベラルが言う「多文化共生」というのは「動物園のように、一同に集めるけれど、アンダーコントロールの状態にあるうちはかわいいね」ということなのだ。
だからなんとなく「よきこと」のように「多文化を受け入れましょうね・理解してあげましょうね」と言ってきたが、それは実は上から目線であり、もし猛獣のように歯向かってきた場合は即時射殺するくらいの「まやかし」が潜んでいるというわけなのである。
(そもそも、動物園であったもすべての動物を自然のとおりに放し飼いにはできない。各動物はオリに入れられており、実際多文化はそれぞれのオリに入れておかないと共生は不可能だ。
実は中国架橋などは、この点をうまくやってきており、チャイナタウンを形成するが、文化をそこから外に出して軋轢をわざと生むようなことは避けるというシステムでこれまでやってきた。これからは知らないが)
こうして述べてきたように「本質論」から「文化とはなにか」を捉え直すと、「共生」なんて最初から最後まで全く不可能だということがわかる。
では、どうすれば共生めいたものができるかというと
■ Bの文化出身の人間が、Aの文化に染まってゆく方法(帰化など)
■ Aの文化の中に、特区としてオリを作ってその中でBの文化を活かす方法(チャイナタウン・コリアンタウンなど)
■ Aの文化の中に、Bの文化が時間をかけて混じってゆく方法(日本文化はほぼこれ、漢字や建築など)
などが考えられるが、すべてけして「対等」ではないことがポイントだ。
主流であるAの文化の中に、傍流であるBの文化がわずかに、すこしずつ流入してゆく、というのが多文化共生の実態である。
日本は島国なので、じつにこれまで上手にこれをやってきている。
「ラーメンや餃子を食べ、スパゲティもピザも、ハンバーガーもビリヤニもカレーも食べ、ていうか日本では世界のほとんどの料理が食べられる」
「漢字仮名まじり文にカタカナ英語も合体させ、NIKEとかFerrariもちゃんと読める」
「クリスマスやハロウィン・端午節・中秋節だって楽しめる」
「ハラール食 ”も” 入手することができる」
など、これほど多文化理解が進んでいる国は、実は珍しいのだが、それは「日本文化という主流の部分を崩さない」からなのだ。
(日本ではハラール食 ”も” 入手できるが、厳格なイスラム国家では非ハラールな食物は ”入手できない” ことを考えればこの非対称性にすぐ気づくだろう)
さて、結論である。文化はそもそも共生できないが、唯一「主流文化の中に、異文化を尊重して取り入れることができる」という方法があるだけだ。
したがって「対等に(扱うように誤解)して、結果として文化対立を生じさせる」べきものではない。
経済界が「安い労働力」として外国人を日本に入れる行動は、ほんとうにゲスの極みとしか言いようがなく、その主目的は「安い」というところにしかない。
本当に外国人労働者を尊重しているのであれば「その文化」をも尊重すべきである、それを流入させることは「けして安くつかない」ことはわかるはずなのだが、「多文化共生」というニセモノの「お題目」を掲げることで、自分たちの欲望だけを満たそうというのは、そうは問屋が卸さないのである。
幸い、今の日本には戦争による移民流入問題がなく、現実をわかっていない権力者が多いが、この問題の舵取りを間違うと、今度は自分たちが高い代償を払わねばならないのである。
恐ろしいことである。