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世界はいかにして創造されたのか

 当noteや武庫川さんのブログの愛読者であれば、もう「聖書」に書かれていることが中東の単なる神話群に過ぎず、いわゆるヤハウェ(エホバ)という神がかなり遅めに登場した「比較的新しい神」であったり、その姿が牛さんだったりすることもすでにご存知と思うが、実は最後に残された謎があったので、今回はそのあたりにメスを入れてみたい。

 聖書が「エルまたはエロヒム」という神と「ヤハウェまたはエホバ」という神の合成によって成立していることはすでに、学術的にも十分明らかなのだが、古代イスラエルの「南ユダ王国」が滅びそうになったときに

「こりゃあまずいぞ!なにか民の心を一体化する拠り所を作ろう!」

ということで、当時の神官や支配者層が中東の”すみっこ暮らし”だった「ザコ神」の「ヤハウェ」に目をつけて、自分たちの神として大いに祭り挙げたらしいことは想像に固くない。

 そして、それまでのメソポタミアに伝わる神話群をベースにしながら、あるいは北イスラエルに伝承されていた「エル・エロヒム系神話」も十分加味しつつ、それらを全部合体させて最終的には「それは全部ヤハウェがやった事績なのです」ということにしてしまえば、聖書のいっちょ上がり!ということになる。

 いわば戦隊モノに最後に出てくる「合体超合金ロボ」みたいなのが、聖書の変形最終形態であって、全部ヤハウェがやったことになっているので、強大なパワーを持っている(ふうに見せかける)ことには、大成功したのであった。

 まあ、そういうわけで、懸命なる読者諸君においては、

「じゃあ、ヤハウェという神に従っても仕方がないのね。それよりかはエルやエロヒムを信仰したほうが、まだマシってことかしら」

とつい思ってしまうのは自然なことであるが、ここですこし立ち止まってほしいのである。

 たしかに、聖書からヤハウェを除外すれば、古い紙である「エル」や「エロヒム」が残る。キリスト教徒やユダヤ教徒は「ヤハウェ」を重視しているので、ヤハウェを除外することはひとまず「キリスト教の否定」ということになる。

 余談ながら「エル」「エロヒム」は「アッラー」の語源なので、むしろイスラム教徒は「エルやエロヒム」を最初から信仰していることになるのだが、であれば「ヤハウェを除外する」とはすなわち「イスラム教徒」になる、ということなのか?というすっごい方向へ話が飛びそうになるので、「いやいや、ちょっと待て」ということになるのだ(笑)


 そこで、ざっくり整理しておこう。中東の古代文明というのは、いわゆるメソポタミア的な

■ シュメール文明・シュメール神話

というのがあって、そこから

■ ウガリット文明・ウガリット神話

があり、そして

■ 聖書神話

へとつながってゆく。

 この時「新しい神が登場する」という概念を頭の片隅においていてほしい。そして「新しい神は、古い神のやったことを上書きしがち」という「神あるある」もぜひ覚えておいてほしい。

 わたしは「あるある言いたい」のだ。

 完全に余談だが、あるある言いたいでおなじみのレイザーラモンRGくんとは大学が一緒だったので、彼がまだプロレス同好会で好き放題暴れ回っている頃から、生でリングを拝見している。

 武庫川さんの大学の友人には、プロレス同好会に入っているヤツが数人いたので、私はRG氏とは直接友人ではないが、興行されたリングサイドにはいつも私がいたのだぞ。


 話が完全に横へ飛んでしまったが、ウガリット神話から「エル」が登場する。シュメール神話には「エル」はまだ登場しない。これがミソだ。

 聖書に引き継がれた「世界の創世」神話は、どういう構造になっているかというと

【シュメール神話に天地創造の話がある】
【カインとアベルの元ネタもシュメール神話】
【ついでに大洪水の話もシュメール神話】

【エルやバアルが登場するのはウガリット神話】
【聖書神話のベースはウガリット神話】

【聖書神話が最新版】
【ヤハウェの物語としてそれまでの神話群が改変されている】

という三層になっているわけだ。

 これを最新版から遡っているので『ヤハウェが天地創造をして、そのあともあれこれした』というふうに読めてしまうのだけれど、元ネタから順番に追いかけてゆくと

■ 天地創造のとき、なんとエルはまだ存在しない
■ ウガリット神話には明確な「創造譚」がない。
■ ウガリット神話では、エルはなんか最初から「創造者」として決まっている
■ 聖書神話でも創造者は「エル」であり、ヤハウェ表記ではない。
■ エデンの園以降はヤハウェ神話

という流れになっている。


 これでもまだわかりにくいので整理すると、一番古いシュメール神話では「天の神(アヌ)と地の神(キ)がいて、天地が分かれて創世スタート」と書かれているだけで、エルはまだ登場しないのだが、ウガリット時代になると、もう天地は創造されてしまっているので、「最高神エル」が設定されると、具体的な創造譚はないのに「なんかしらんけど、ほら最高の神だから、エルが作ったんでしょ」的にさらっと流されているのである。

 それを聖書は丹念に拾い上げて、「創世記」からあらためてしっかり書き起こしているのだけれど、「エルが作ったんでしょ」という伝説だけが残っているで、「エルが7日間で天地を作った」と書いているのである。

 ちょっとだけ誠実なのは、天地創造を「ヤハウェ」の仕業にしなかったところだろうか(笑)


 では、問題は「ほんとうの創世はどうだったのか?」という点だ。

 よく一般的にも「聖書や神話は信じられないけれど、創造主はいるんじゃないか?」みたいな言説が飛び交うことがあり、僕たち私たち人類は「創造譚」を心から欲している。

 聖書神話を拠り所にすれば「エルが作った」になり、ウガリットでは明確な言及がなく、シュメール神話では「天と地が分かれた」とだけ書いてある。

 え?それだけ?と言われればそうなのだ。ただそれだけしか書いてないのである!

 ちなみに「人類の誕生」についてもシュメール神話が原点で、「粘土から作った」とだけ書いてある。これは聖書神話にも受け継がれていて、アダムを「土から作った」ことになっている。

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 では結局のところ、「世界の創世」はどうなっていたのか。最も古い文献群を精査した結果わかったことは次の2つだけだ。

■ 混沌的だったものが、天と地が分かれて、なんかできた。
■ 人間は土からできた。

これだけである。

 それが最も古いシュメール神話のエッセンスであって、源流にしてコアの部分なのだ。

 え?それだけ?うん、それだけなのである。

 問題はこれを信じて、「創造主に従うべきだ」とか「創造主を信じたい」と思うべきか思わざるべきか、ということである。

 ちなみに創造主と言っているが、これは「聖書」バイアスがかかっているイメージで、ほんとうは

「天の神アヌ(男)と地の神キ(女)によって天地が分かれた」

という仮面ライダーWみたいなことになってるので、二人はいっしょでセットなのである。

 そうすると「アヌとキを信じるか?」という話になってくるため、もうこれは日本人ならおなじみの

「イザナギ(男)とイザナミ(女)の創造譚を信じるか?」

ということと同レベルになってくるのである。


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 まあ、そうなると「創造主的な神々を信じるかどうか」というのは、どちらかというと古代文学的な世界観に寄ってくるので、

「神話がどうあれ、ビッグバンの外側に創造者である神っぽいものがいる」

ということの拠り所としては「かなり弱い」「弱くて使いづらい」ことになりはしないだろうか?

 それでも「イザナギ・イザナミ」よりは「アヌとキ」のほうが信じられるという奇特な人は、もう信教の自由なので、そこから先はそっとしておきたい。


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 さて、ここからはもう少しハイレベルな話をしよう。創造者や創造主を信じたい人は、やはり「聖書の緻密な描写」にかなり影響を受けており、バイアスが掛かっている。

 もともとの神話の形は「天地が分かれた&ドロ人形」くらいのものだったのだが、聖書の著者はそれをかなり「かっこよく」「それっぽく」整形した。
 それは実際良くできていて、ドロ人形レベルの話が本当に「天地はこうして存在するようになったのだ」と錯覚するほどには仕上がっている。
 うまい!ここは率直に拍手を送ろう。

 あやうく騙されるところだったぜ!


 天地創造の聖書的プロセスは(ウィキより引用)

1日目 神は天と地をつくられた(つまり、宇宙と地球を最初に創造した)。暗闇がある中、神は光をつくり、昼と夜ができられた。
2日目 神は空(天)をつくられた。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせられた。
4日目 神は太陽と月と星をつくられた。
5日目 神は魚と鳥をつくられた。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくられた。
7日目 神はお休みになった。

というものだ。実にうまい。なんとなくそれっぽい!科学的な感じがして、惚れ惚れする!

とまず褒めておくが、よく考えると怪しい箇所もあるのだ。

 天と地を分けるのはシュメール神話の創世譚のコア部分だが、1日目と2日目と3日目は同じことを実は言っている。1日目と4日目も、実は同じことを言っている可能性がある。星は最初に地球を作っているのだから。
 5日目と6日目も若干かぶっている。

 やっていることのエッセンスは「光と闇」「天と地」「動物」「人間」くらいのもので、4日あればできる(笑)
 もっと科学的に読み解けば「光と闇」と「太陽と星」はおなじなので(太陽から光が発せられるから)あと1日は短縮できる。

「天と地(光と海はここに含む)」「動物」「人間」の3日でできるのだ。

 つまり、7日間の天地創造は、よく読むと同じようなことを「無駄に日数をかけて重ねながら描いている」ことがわかるのである。

 なぜか?

 ここが創世神話のいちばんの肝である。


 もう一度思い出してほしいが「シュメール神話には天地の話とドロ人間の話しかない」「ウガリット神話は創造譚をパスしている」であった。

 つまり7日間の創世神話は、「聖書の編集者のオリジナル部分」ということになるわけだ。では、いつそれが書かれたのか??

 ◯ シュメール文明は紀元前3500年くらい
 ◯ ウガリット文明は紀元前1450年から起源前1200年くらい。
 ◯ 聖書記述は最古の説でも紀元前950年くらい。

という時代の流れである。

 さてここで、すこし脇道へ逸れる。

◯ バビロニア文明は紀元前1700年から起源前300年くらい(長い)

という情報を放り込んでみたい。

 古代ギリシャには週の概念がなく、古代ローマは、一週間は8日であった。エジプトは10日区切り。

 では一週間7日制はどこからはじまったのか?

 聖書に典拠を求める者は、「創世記の神の定めた一週間が由来」としているのはご承知のとおりだが、古代バビロニア説が有力なのだ。

 古代バビロニアでは「7日、14日、21日、28日」に外に出ない風習(休息日)があったり、7日制のルーツとされている。

 実は週7日制のルーツは「聖書」か「古代バビロニア」しかなく、ここがポイントなのである。

 聖書主義者的には、「神が決めたのだ」と言いたいところだが、古代イスラエル人がバビロニアに捕囚されたり、基本的にやられまくっていることを考慮すれば、

「古代バビロニアの影響を受けた聖書筆者が、7日制に天地創造をハメこんだ?」

ということも考えられるのである。

 バビロニアの年代を勘案すれば、状況証拠はピッタリ合うだろう。

「シュメール時代の神話は7日で作っておらず、バビロニア以降に出来た聖書神話は7日制を採用している」

ということだ。これも、「後から書いた内容で、それが古いかのように上書きしている」ということになるのだ。


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 こうして考えれば、聖書の創造譚は、「かなりよく出来ているものの」その正体を解き明かせばイザナギ・イザナミレベルの「古代神話群」の域を出るものではない。

 それを科学的に置き換えれば、少なくとも世界は

「神によって創造されたものではない」

と言えるだろう。いや、なんらかのエネルギーによって成立したのかもしれないが、それは

「人間の思い描く神とはまったく違うものだ」

ということになる。


 これにて聖書の謎はすべて解き明かされたのである!

 バババーン。

(おしまい)

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