![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/83465701/rectangle_large_type_2_94ebcbda86e858f9ce03fafc4cfbd4ba.png?width=1200)
そして無敵の人は、「神」となった。
安倍元首相の銃撃事件が日本中を驚かせ、その犯人が宗教2世であり、また宗教によって人生のほぼすべてを失った「無敵の人」であることなどが報じられるようになったこのタイミングで、秋葉原無差別殺傷事件の犯人であるK死刑囚の死刑が執行された。
このタイミングが偶然なのか、必然なのかはわからないが、あまりスッキリとはしない”気持ち悪さ”のようなものを感じたのは、私だけではあるまい。
無敵の人の死刑が、国葬の殉死みたいになっている。
— 武庫川散歩 (@mukogawa_sanpo) July 26, 2022
古墳時代かよ。#死刑執行#国葬
思わずつぶやいたが、まるで”「無敵の人」に撃たれた安倍氏への殉死とすべく、同類の元祖「無敵の人」と呼ぶべきK死刑囚を殺した”かのように、読み取れるからだ。
よもやよもや、Y容疑者の代理として、K死刑囚を捧げ物にしたとでも言うのであろうか。
もちろん、そもそもは安倍一族が統一教会というカルト宗教と深く関わったことに原因の一端があり、Y容疑者も教祖の代理として安倍氏を狙ったなど、この事件にはそこはかとない呪術性のようなものを感じる。しかし、まあ、それは単なる個人の思い込みであろう。
しかし、K死刑囚の壮絶な人生、そしてY容疑者の壮絶な人生を読み解いてゆくと、そこには日本的神話における「怨霊」めいた側面がどうしても浮かび上がってくる。
奇しくも、作家の橘玲さんは、
「秋葉原通り魔事件の死刑執行 加藤死刑囚、孤立深め社会に怒り」 「下級国民の神」が1人消え、いままた新しい「神」が生まれつつある。https://t.co/gVhfuVMcbp
— 橘 玲 (@ak_tch) July 26, 2022
K死刑囚を古い「神」、Y容疑者を新しい「神」と表現したが、これは2つの意味で絶妙な言い回しだ。
最初の意味は、K死刑囚とY容疑者のような犯罪が、一部の「無敵の人たち」にとって、残念な意味での「救いと希望」になっていることを指している。
この日本社会にあって、「下級国民」として暮らし、何も得ず、何物にもなれなかったどころか不当な生き方を強要された不遇の人たちが、KやYに対して「社会に一矢報いたヒーロー」であると考えるだろうことは想像に難くない。
そう考える是非は別にしても、「そう思ってしまう人たちがいるだろう」と考えるくらいの想像力を許さなければ、今の日本社会を読み解くことはできないからだ。
(そうした人たちの存在を無視するものは、次に殺されるだろう)
さて、”社会に一矢を報いたヒーローとしての神”が一つ目の意味ならば、二つ目の意味は、
”不遇を恨み社会に知らしめた怨霊としての神”
である。
ヒーローと怨霊は、ひとつの事象の表裏でもあるが、たとえば結果としてY容疑者の銃撃によって、日本中のメディアがこれまで隠されていた政治と宗教の癒着を暴き始めたのだから、Y容疑者がやったことの是非はともかく
「とんでもない影響力と、社会を変革する力が発揮された」
ということは事実であろう。学生運動時代の過激派に見習ってほしいくらいの、(結果的ながら)影響力と変化力のすごさである。
過激派が結局仲間割れと内ゲバに終わったのと、せいぜい北朝鮮への亡命くらいしかできなかったことを考えれば、Y容疑者の結果論としての影響力は、絶大であったと認めざるを得ない。
つまりは「誰でもよかった」という犯行ではダメなのだ。元首相くらいの人物を狙わなければ、社会は変革されないのである。(残念なことに)
さて、日本社会には古来から文化としての「怨霊」が存在する。それは
”不遇なるもの、あるいは運悪く罪人と貶められたものは怨霊となって社会に仇なす”
という考え方だ。菅原道真、崇徳上皇、平将門などなど、中古中世から日本の歴史においては
「不遇なるものの怨霊」
が常に社会に警鐘を鳴らしてきた。
この怨霊は、社会に害悪をもたらすものだが、それと同時に「為政者に自戒を促す」役目をもたらす。つまり、権力を握った者が「偽りの行いによって、不遇なるものを無視した行政を行えば、怨霊が復讐するだろう」ということを意識させられることを意味する。
だから慌てて、「よからぬ政(まつりごと)を行った為政者は、怨霊を鎮めるために祀(まつ)る」のである。
そうして再び、不遇なるものの不運が明らかにされ、そうした状況にしてしまったことが「悪であった」とジャッジメントされることで、怨霊は転じて守護神となる、という物語が繰り返される。だから今では、天満宮は怨霊ではなく、神なのだ。
現在、Y容疑者の生い立ちが明らかにあり、統一教会の悪行と政治への介入がどんどん暴かれていることは、怨霊への鎮魂そのものだ。
メディアが書けば書くほど、怨霊は癒される。それはY容疑者個人にとって溜飲が下がるというレベルの低い話ではなく、
「日本中のカルトの餌食になった人たち」
「日本中の失った人たち」
のすべての怨念が、メディアの報道によって少しでも・わずかでも浄化されてゆくことを意味するのである。
そしてそれは同時に、「Y容疑者ほどまでの犯罪を行えば、社会はその背後関係まで目を向けてくれるかもしれない」という恐ろしい新たな希望にもなっている、諸刃の剣である。
けれど、本質論を言えば、
「メディアが最初から悪を暴いていれば、そもそもY容疑者は生まれなかったし、社会が最初から無関心でなければ、無敵の人たちは生まれなかった」
と言うこともできる。
つまり、順番が逆なのである。
「怨霊が災害をなすから、慌てて鎮魂のために祀る」
のではなく、
「怨霊を生まないように、社会が襟を正す」
べきなのだ。
しかし、人類は愚かなので、どうしても怨霊の出現によってしか、その誤りに気づくことができない。
だから、おそらく未来においても怨霊はつぎつぎに現れるのであろう。
そうならないためには、僕たち私たちが、無関心でいることなく、常にすべての人に目を向け、手を差し伸べながら生きねばならないことが肝要である。
そうでなければ、つぎに災いを受けるのは、「誰でもよかったあなた」かもしれないし、「権力者であるあなた」かもしれないからである。
怨霊はいまも、闇から湧き上がってこようとしているが、それを善良なる神に変えられるかどうかは、僕たち私たちの日々の生き様によるのである。
(おしまい)