大衆化の光と影
最近、自分という存在が大衆化しているように感じる。つまり、人とコミュニケーションを取る機会が多くなり、自分という存在が社会に露出する場面が増えたということだ。一見すれば、友人も増え、大変良いことのように思える。しかし、大衆化は光と共に多くの影をもたらすと言える。
ひとつ例に挙げたいのが、今やテレビを超える勢いで成長している動画配信サービスである「YouTube」である。このサービスが始まったのは2005年のことで、約20年前のことである。当時と比べると、現在では社会に根強く浸透し、広く支持を集めている。これが大衆化の典型的な例と言える。
大衆化によってYouTuberという新たな職業が生まれ、多くの個人や企業が動画を投稿するようになった。しかし現在では、参入者の増加により競争が激化し、動画に求められるレベルは著しく向上している。また、YouTubeでもテレビと同様にコンプライアンスが重視されるようになってきた。これらの変化は一概に否定できるものではない。しかし、大衆化により参入のハードルが下がり参加者が増える一方で、全体の要求水準も上がっているという矛盾した状況にある。このように、大衆化には避けられない課題が存在するのである。
それでも今日もYouTubeには多くの注目が集まっている。それは、大衆化のデメリットがありながらも、メリットを得ようとする人が多いからだ。このような不特定多数が利用するサービスでは、ネットワーク理論という考え方がよく用いられる。簡単に言えば、「サービスの価値は利用者数の二乗に比例する」という考えだ。つまり、利用者数が多いほど価値が高まるのである。どんなに使いやすく自由なサービスでも、利用者が少なければ意味がない。逆に、多少の制約があり参入障壁が高くても、利用者が多ければ十分な反応が得られ、豊富なコンテンツに触れることができる。
この点を自分に置き換えて考えてみたい。
自分が大衆化すれば価値も上昇すると考えるなら、当然、自分に関わろうとする人も増えるだろう。しかし、一方で、自由が制限され、一人ひとりと十分に接する時間が減るため、既存の関係は必然的に希薄になり、人間関係はより表面的なものとなっていく。これがネットサービスなら、利用者の多さで維持できるが、私は生身の人間である。確かに他者との協働は必要不可欠だが、私は社会的欲求だけで生きているわけではない。自己実現など、さまざまな欲求を満たしながら生きているのだ。
したがって、自分の大衆化が必ずしも望ましい状態とは言えないと考える。実際、大衆化は私の生き方を脅かしかねない。周囲がどう言おうとも、自分の信念は貫くべきである。親密な友人なら、それを理解してくれる。しかし、大衆化により表面的な人間関係が増えると、結果的に自分の自由が侵される事態となる。 だからこそ、私自身の大衆化を手放しで喜べないし、歓迎もしない。互いをよく理解している仲間と共に過ごす生活こそが、最も価値があるのではないだろうか。