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ターゲット個人の社会的扱われ方
過去の記事でご紹介しましたように、私は少し特殊な環境で過ごしています。もう約四年前になりますが、仕事の帰宅途中に知らない男に背後から本名で呼び止められるという出来事がありました。
この出来事を取り上げて、ターゲット個人が現在どのような社会的扱いを受けがちなのか、オーソドックスな例として公開します。
ターゲット個人の取り扱われ方の現状
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上の写真の説明の通り、珍しく警察に通報してもおかしくはない「事件」が発生しましたので、前日の出来事を記録しておいてもらおうと、翌朝管轄の池袋警察署に相談に伺うことにしました。下の写真は生活安全課で相談に乗って下さった担当職員による結果表です。
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相談中、私が「集団ストーカー」という言葉を発した途端、担当職員の方が私のことを小さい子供か痴愚のような扱いをし始め、早くその場を切り上げようとする様子がわかりました。後日相談内容の結果表をみると、私の実際の発言内容がいくつか欠けているだけでなく、ご自分の先入観にしたがった表現に換えて記載されています。
訂正請求も考えましたが、こと細かに反駁する自分の姿を想像するとそれもまたコミカルな絵づらが浮かぶばかりでしたので、記録はこのまま保管することにしました。保存期間3年となっていますので池袋警察署ではすでに廃棄されているはずです。
2019年7月17日(水)、朝9時台にもかかわらず相談に耳を傾けて下さった池袋警察署の若い女性巡査部長(当時)様、お忙しいところご対応下さり有難うございました。また2021年4月30日(金)午後、警視庁情報公開センターの窓口で私が持参した保有個人情報開示請求書の記載に不備がないか目を通したあと、「完璧じゃん」とお褒め下さった元大相撲力士に風貌の似た担当職員様にも、この場を借りて御礼申し上げます。
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今回のケースでは、駅構内に複数の監視カメラが設置されている場所での出来事でしたので、本来ならJR東日本に画像を確認してもらうように手配したかったのですが、ちょうどこの頃、私は職場でも工作のさなかでとても手が回らなかったという事情があります。私が自由の効かない状況であることを承知で工作を重ねて来たとも考えられます。
このように、私の件で対応して下さった担当職員二名の方々を皮肉った文章を公開してしまいました。これらの職員について私がもっとも残念に感じるのは、事実なのかそうでないのかが証明されていない事柄について「答えを出してしまった」うえで対応している点です。事実が判明していないものごとを取り扱う場合は、せめてフラットな姿勢で仕事をしていただけると助かります。
ひとつ強調したいのは、前述のような職員がいる一方で、冷静に対応してくださる警察職員の方々がいたことです。交番勤務の警察官から警視庁職員の方々まで、誠実な方々がいらっしゃることを直接知ることができました。そんな時に感じたのは、警察職員としてばかりでなく、個人としての誠実さでした。
なぜこの問題は”相手にされにくい”のか
私は、集団ストーカー(≒ガスライティング/ギャング・ストーキング)問題が社会的に受け止められにくいとしたら、「気味の悪さ」と「荒唐無稽さ」が、”まともな一般人”をこの問題に寄せつけなくさせているのが一因ではないかと感じています。
ターゲット自身もこの「気味の悪さ」と「荒唐無稽さ」というペンキを被らされているため、非当事者側からみると集団ストーカー側とターゲット個人側が同系色に見えているのではないかと想像します。大衆は私を筆頭に、自分に関心の薄い情報はおおざっぱにしか理解しません。私が非当事者だったとしたら、冷たいようですがあまり関わろうとはしないと思います。
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このように二者が一緒くたにされて忌避されがちな状態を招いているかも知れないことを肝に銘じて、慎重に訴えていく必要があると考えています。
本質から目をそらされないために
われわれはこの地上には二つの人間の種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの「種族」は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。もっぱら前者だけ、あるいはもっぱら後者だけからなるグループというのは存しないのである。この意味で如何なるグループも「純血」ではない。
上は、ナチス強制収容所での自らの体験を「夜と霧」という著書にまとめたオーストリアの精神科医、ヴィクトール・エミール・フランクル(1905~1997)の言葉です。
ガス室の煙突から立ちのぼる煙を日常の光景にして、飢餓と看視兵による拷問に怯えながら、いつ終わるとも知れない強制収容所での極限状態では、自分を取り巻く人物をみる目が否応なく研ぎ澄まされるわけですが、これはまさしくその中から生まれた言葉ではないでしょうか。
「品位ある善意の人間」という属性は、組織や団体ではなく個人がもちあわせるものだという点に私は深く共感します。たとえば医者や警察は人々を守る側の職業「だから善意の人間」なのではなく、その集団には両方の人種が存在しているということです。誤解を恐れずにいえば、工作員の中にすら「善意の人間」側に属する人がいることを私は経験として知っていますし、逆にターゲット被害者だからという一事をもって「善意の人間」であることを保証するわけでもありません。ある人がフランクルの言葉をもっとシンプルにこう言い表していました。
人間にはクソかクソじゃないかの2種類しかいない。
フランクルがいう通り、如何なるグループも『純血』ではありません。この真実を念頭において進んでいかなければ、目を曇らされるばかりで本質的な解決への近道はないと考えています。
ビスマルクはかつて「人生とは歯医者にかかっているようなものだ。すなわちこれからが本ものになると思っている間にもうすんでしまうのだ。」と言った。ー すなわち強制収容所にいる多くの人間は価値を実現化する真の可能性はまだ先であると考えたのである。ー しかし実際はこの可能性は収容所のこの生活から生じるものの中にあったのである。ーー すなわち多くの囚人の如く貧しい生存をするか、あるいは少数の稀な人々の如く内的な勝利かである。
困難が解決してから人生の本番がやって来るのではなく、いま置かれている境遇の中で真の自分の価値が実現化されるといっています。困難に遭遇したことによってたまたま自分の課題との向き合い方が表面化したということです。ひと昔前「自分さがし」という言葉をよく聞きましたが、何処かに探しに行かずともここにいるのが自分です。
ターゲット個人は、"集団ストーカー問題に対する考え方"の違いというよりも、その人の死生観の違いによって内的な境遇が大きく異なるのではないかと、フランクルの言葉を読んで感じました。
私を感動させたのはアウシュビッツの事実の話ではなくて、………彼がこの地上の地獄ですら失わなかった良心であった。
訳者あとがきより
富や権力を持ち過ぎると、人間は世界をゲームとして遊び始めるのかもしれません。それに抵抗するプロセスにいるからこそ、たまたま自分が”善人”という設定になっているのかもしれないということを、忘れないようにしたいと思います。