それは、わたしの思考ではない
わたしたちにとって、周りの世界が何らかの反映であることは自明である。それが一体かんの反映で、どのような度合いで成されているのか、それについてわたしたちは心配する必要はない。
しかし、よくあることなのだが、鏡の映り具合に関して、気にかかることがある。あなたは鏡の世界に入場を果たす。そこではすべてが一歩遅れた世界で、なんだかやることに追われているような気さえする。あなたの気がかりは正しい。鏡の世界は、あなたの意図よりも一歩遅れて反映しているのである。だから、あなたは鏡の世界で気になることがあると、それを追いかけ始める。すると、さらに気になることはあなたを追いかけるようにして、鏡の世界に反映する。あなたは、自動的になんらかの展開が進行していることに気づくかもしれない。あるいは、気づかないかもしれない。あなたの目的や意図が達成するか、解消されるまでその展開は進む。あなたは、その法則や事実を知っていようといまいと、あなたの思考や目的、意図に気づかない限りその展開運動は止まることはない。
そして、その出発点となったあなたの気がかりとやらは「あなたの意図」であったのだろうか。
例えば、昨日の「自白」について、わたしは意味をもたせることもできたし、無視することもできた。結果としては、放置した。しかし、ここで再び昨日の「自白」について語ろう。わたしたちは周囲の世界もまた自白することを知っている。それがあなたの口から発せられた言葉でないにせよ、あなたの思いを人々が、世界が示してくれることはままあるものだ。しかし、その意味内容が、実際にあなたにどんな作用をもたらすかまでは「自白」は語らないし、責任も持っていないのだ。ただ自動的に世界は、あなたにヒントを与え続けるし、あなたは世界に自動的に反映を続けるのだ。あなたは、それがどんなものであろうとも受け取るものであると思っているかもしれない。なぜなら、あなたが考えたものであるからだ。しかし、であるならば「あなたの考えた以上のもの」は現れないのであり、あなたが考えた「あなたにとって有用でないもの」あなたのエネルギーを低下に導くあれこれもまた、受け取るものとして認識してしまうことになる。
あなたは、本当に受け取る必要があるのだろうか。世界に示された「あなたに関係のあるようなサイン」をすべて受け取らなければならないのだろうか。答えはノーだ。それは、あなたの思考ではない。そう切り捨てることができる。あなたは仕分けることができるのだ。あなたは好みを決定することができる。もし、あなたが心配するようなことや不安に思うことについて、世界が「重要だと思えるようなサイン」を示しても、あなたは「それは、わたしの思考ではない」と言うことができる。あなたは自らの意図を示すことができる。あなたは鏡の世界に入って、自分の意図を、後ろ側にある意図を追いかけ回すことはないのだ。意図は、自動的に反映されていくのだから。
あなたにとって、それは意図の復活である。鏡の世界である現実世界に対して、命令することを意味する。あなたに世界を展開する決定権があるのだ。あなたの手に、現実を動かす権利が戻ってくるのだ。いや、はじめから手にしていた。ただ、完全に方向性を見失っていただけなのだ。だから、あなたは常にうまくいく。常に素晴らしく事が運ぶ。あなたにとって予想外のことが起こるだろう。あなたの考えの及ばぬ出来事が、今まさに起きている。あなたに素晴らしい結果をもたらす。あなたはたった今、叶えたのだ。あなたにその願望は必要ない。あなたのものとなっているのだから。あなたは勝利した。ただリラックスして、悠々と呼吸し、幸せの味を味わっていればいいのだ。すべてはうまくいく。すべてはうまくいっているのた。