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大嫌いだけど感謝はできる

これは、アタシが断捨離ならぬ全捨離に勤しんだ2015年末〜2016年1月ごろのお話だ。
捨てに捨てまくった年末。45ℓのゴミ袋ゆうに100袋分は捨てただろうか。なぜ?なんのために?とお思いだろうか。それはね明智くん、いや読者の皆様。
運気を上げるためだったんだよ。
それで?運気は上がったのかい?どうなんだい?なんて声が聞こえてくるけど、ちょ待てよ。その話はおいおい語るから。それじゃ「大嫌い…」の件(くだり)始めるよ。

Mujaki703

※前の結婚時代のお話

大嫌いなひと
許せないひと
 
どうしても好きになれないひと
どうしても許しがたいひと
 
アタシの場合、それは【両親】
(とくに母親)

苦しみの原因は
「アタシがアタシを許せないこと」
つまり自己受容がアタシの課題だと気づいて実践し始めたのが15年前
(18歳のアタシは気づいていたんだけどね)
 
「どうすれば自分を許すことができるんだろう?」
 
その答えは【斎藤一人さん】のCDにそのまんまあった
斎藤一人さんの著書を読み漁り
付属のCDを車で聴きまくっていた
15年前のアタシ
(知る人ぞ知る“100回聞き”CD)
 
そのなかで「感謝」というコトバを
何回も何回も聴くことになるんだけど
当時、「感謝」の意味が全くわからなかった
(実は、ついこの間まで全くわからずにいた)
実感も体感も全くなかった
 
「こんな自分が嫌なんよ!感謝のひとつも出来へん自分なんか人間の屑や!」
「だからいつまでたっても苦しいまんまなんよ!」
そんな自己嫌悪もたびたび
こんなじぶんを許せるわけがない

もっと頑張れ!
もっと感謝しろ!
 
もっと!
もっと!!
もっと!!!

そんなとき
CDのひとりさんの声がこう言った

「どうしたらじぶんを許せるかって?
簡単だよ、『じぶんを許します』って言えばいいんだよ」

 
そのとき
堰を切ったように
涙が溢れ出して止まらなくなった

そして言ってみた
 
「じぶん…を………許し…ます」
 
もう、だめだ
涙で前が見えないよ
車を路肩に停めて大声をあげて泣いた

意味もわからず泣いた  
最後は笑いながら泣いた
大声をあげて
笑いながら

泣いた
泣いた
泣いた
泣いた
泣いた
 
そして大きな壁をひとつ乗り越えた

でも、ちょいちょい現れるのが
ひとりさん言うところの「悪徳裁判官」って奴で
重箱の隅をつついてくる
 
「こんなオマエでも許せるのか?」
「そんなオマエでも許せるのか?」
「あんなオマエでも許せるのか?」
 
焦らない!
迷わない!
 
「こんなじぶんを許します!」
「そんなじぶんを許します!」
「あんなじぶんを許します!」
 
徐々に
徐々に
 
アタシは「じぶん」のコップを
愛で満たしていった
 
いつか愛が溢れたら
そのときは必ず
他者へ愛を注げるひとになる
 
まず自分!
まず自分!
まず自分!
 
言い聞かせた
 
そして「自分を許します」
ナチュラルにそう言えるまでになった
 
さて、そうして満たされたとき
無条件に他人のことも許せるようになったかというと
決してそうではない

 
血のつながりが濃いほど
簡単ではないみたい
(アタシの場合は)

オカンのこと
オトンのこと
 
いまは一緒に暮らしていないし
縁を切ってしまっているので
表面上は穏やかに暮らしている
 
でもきっと
いまだに許せてはいないのだとも思う
 
でも
でも
でも
でも
でも
 
憎っくきオカンのことも
憎っくきオトンのことも
いまだに好きにはなれないけれど
 
「感謝」はできる

昨年末、お墓掃除をした辺りから
 
何はともあれ、産んでくれたことには『ありがとう』だよな
そんな風に感じているアタシがいる
 
アタシの幸福感は
ここから広がっていった
 



あれから8年。
思いもよらぬ方法で復讐を果たし
(言い方悪っ)
今の旦那さんと籍を入れてもうすぐ5周年記念日を迎える。

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