不登校になるまで

不登校の原因はいじめだった。
そう書いたら私は被害者になれると思う。誰かのせいで苦しめられて、心に傷を負ってしまった女性。今もその余波で苦しんで社会復帰できないでいる弱者。

でも私は彼らにとっては加害者だったと思う。というか、公害だった。

風呂に入って居なかったのだ。

さらには、受験までしてそこそこの中学に進学したのに、毎日出される課題を全くこなさない。毎日夜遅くまで居残りで前日の課題をし、補習があればその後合格するまで受けるという日々を過ごしていた。

先生方は「またか」というような事を言い、大げさに身をのけぞらせてリアクションしたりしていたが、ほとんどの先生がいつも少し微笑んでくれていた。
本当に良い先生ばかりだったんだろう。担任も嫌味の多い人だったが、常に私の事を気にかけてくれていた。
先生方には本当に申し訳なかったと今でもよく思う。私のせいで仕事を切り上げられなかったのだから。


少し話がそれてしまった。
居残りと補習が重なった時は帰宅する頃には21時を過ぎていて、そこから課題に取り組めばその負の連鎖を断ち切れるだろうに、なぜかそれができなかった。
テレビを見ながら食事をして、風呂にも入らずにぼーっと過ごした後に眠る。そんな生活だった。

当時、我が家にはインターネットも引かれていなかったので、本当にぼーっとしていた。ゲームはあったが、あまり遊んでいた記憶はない。

当時友人と話題を共有するために買ったはずのタイトルの動画を大人になってから見ても全く記憶がなかった。

記憶がないだけで遊んでいたのかもしれない。

とにかく、私は風呂にも入らず毎日居残りする悪臭落ちこぼれ女だった。
なので、いじめの内容もものを隠されたり、暴力をふるわれたりという事はなかった。

私に触れるようなやつはそもそも私をいじめないと思う。
というか、私だって嫌だ。

無視されたり聞こえるように悪口を言われたり。
一番辛かったのは、科学の実験の時にグループの子に「○○本当に何もしないよな~」と言われた事だった。私に向かってではない。陰口を言うように、私の方を向かずにグループの他のメンバーに向かって言うのだ。
他の子達は苦笑いするだけだったように思う。
それを聞きながら私は「だって私が道具持ってきたらお前嫌がるじゃん」と思い続けていた。
課題はかけらもできないが、授業は好きで、実験も好きだったのでお前が嫌がらないのなら積極的に協力もディスカッションもしてやる。そう思っていた。
何も理不尽な理由でのバイキン扱いではない。私が風呂に入れば済むだけの話だった。
でもなぜかそれができなかった。
ここで消えた入浴習慣を取り戻すのに、実に10年以上が必要だった。


不登校はまず、秋頃の登校しぶりから始まったような気がする。

睡眠時間がどんどん減って、体調を崩す事が多くなったがそれでも学校に送り出されていた。
それでも新型のインフルエンザが出ていて、毎日検温という経験があるので、冬くらいまでは登校していたんだろうか。
たまに登校しても私は毎日のように発熱で引っかかって帰されていたので強く覚えている。喘息があったので咳がひどい事も多く、それをまたからかわれた。

私の不登校が本格化したのは冬か春先だったと思う。このあたりは記憶が曖昧だ。自分の事なのに。

ある日、登校しぶりの攻防の中で私は
「私が学校に行ったらみんなが嫌な思いをする」
と言ったときだった。それまで私を引きずりだそうとしていた母親が急に動きを止め、何があったか聞いてきた。
私はいじめのような事があることを伝え、母はそれ以降私を無理に登校させようとはしなくなった。

私はその時からずっと「私が学校に行きたくないから行かないだけのことを彼らのせいにしてしまった」と思い続けている。

いじめの加害者はそのことを忘れているという言葉を目にするたびに安堵する日々だ。

もし、誰かの心のなかで私との出来事が残っていたら。そしていじめを悪とする意見を見るたびに心を傷めていたら。そう思うと消えてしまいたくなる。忘れていてほしいし、もし覚えていたとしても「あれはいじめではない」と認識していてほしい。


さて、いじめの事を母が相談したのか、電話越しに担任から誰にいじめられているのかを聞かれた。
私はどう答えていいか分からなかった。
無視してくる人の名前をあげればいいだけの事だったんだろうと思うが、そもそも私は自分が悪いと思っていたし、自分から人を避けるようにもしていたから誰が私を無視していて、誰が無関心なのかはっきりと分からなかった。
私と関わるのは嫌だろうからと私の方からバリアを張り、あいさつもしないやつに話しかけないことは絶対に無視ではない。
クラスのお調子者は授業中やみんなの前ではからかうが、近くに居ても私が嫌がるような事は何もしない。でもこれは、私のいじめを認識していた周囲から見たらいじめなんだろうか?
傍観者も同罪だと言うが、自分でバリア張っておいてあいつにやられましたというのはずいぶん傲慢な気がした。

結局、「クラスのほぼ全員です」なんて言えるわけもなく、適当に目立っていた数人の名前を上げて事なきを得た。
何人か陰口がひどい人を取りこぼした気がするが、絡み0で陰口をたたいてきただけの相手のことをいじめの加害者として扱うのは気が引けた。

数日後に担任と副担任がスーツで頭を下げに来た。
「先生は悪くないのに申し訳ない」と思いながら、かなりバツの悪い思いをしながら両親とともに話を聞いた。
「いじめっこの言い分もわかる」というような事を言われた気がする。
今だったら炎上しそうだ。
私の書き方次第では今からでも燃えそうな言葉だと思う。
ただ、私自身もそう思っていたので反論もなければ傷つきもしなかった。

親も何も言わなかった。

私は私でマジメな彼らをダシにして学校に行かない大義名分を得た喜びしかなかった。


それから何度か学校に気まぐれに顔を出すこともあった気がする。名前を上げた、特に目立ついじめっ子が歴史の授業中に、内容に絡めて「告げ口するやつが一番最悪」みたいな事を言っていた。まあ多分私のことだろうなと思ってちょっと気分は悪かったが、どちらかというと「悪い事して告げ口されたバツの悪さ」に近かったと思う。

結局、学校に行く日数がどんどん減り、授業にもどんどんついていけなくなり、2年のときのクラス替えで、仲の良い友人と可愛がってくれる明るい先生に囲まれた神環境を与えられても学校に行かなかった。

保健室登校だけでもするように勧められたものの、学校は好きではないが授業や数少ない友人たちと過ごす休憩時間だけは好きだった私には魅力的ではなく、最終的には地元の中学に転校した。

その転校先も、始業式の日だけ行って数日熱を出し、転校直後から休んでしまった引け目からいけなくなってしまった。
私の不登校に慣れた家族は、ちょっと行きづらいだけの私を叱りはしなかった。多分もう諦めていたんだと思う。

実は転校前に、保健医から紹介されて嫌々ながらカウンセリングに通っていた事がある。
小学生以下の子供を対象とした可愛らしい病院で、学生向けのカウンセリングのようなものが行われていた。

そこで私はカウンセラーに「きちんとした心療内科か精神病院のようなところに通うように」と何度もアドバイスされたが断り続けた。

母のことがあったからだった。

母は私が小学生の頃から精神病院に通院している。入院していた期間も長く、毎日たくさんの薬を飲み、治療開始以前よりぼーっとする事が多くなっていた。

それが病気のせいなのか薬のせいなのか当時の私にわかるわけもなく、とにかくそれが怖いから絶対に行きたくないと断り続けた。

「病院に行ったら薬が必ず処方されるわけではないよ」
「怖いところではないから相談だけでもしておいで」

と何度も言われたが結局私は病院には行かず、地元の学校がどんなに楽しそうか、どうな素敵な友人が待っているかをプレゼンして「転校すれば私は平気だ」と伝え続けた。

それからすぐにカウンセリングもやめた。
効果があるとは思えなかったし、何よりも小さい子どもたちに囲まれながら待つのは、特別発育がよく高校生以上にも見えた私には苦痛だった。

今なら、あの時病院に行っておけばと思うが、当時の自分には真人間が薬漬けにされる恐怖心のようなもしかなかった。

そうやって私は、学校だけでなく適切な医療からも逃げた。

この選択に関しては今でも後悔している。転校先の学校すら不登校になった事もそうだが、医療から逃れてしまった事をだ。
結局私は今も心療内科へは行けないまま、最近になって半ば自力での回復をしているような気がする。
去年の秋頃から、毎日入浴する事ができるようにもなってきた。
そして今、社会復帰を目指そうという段階で「やばかった時に病院に行っておけば福祉にも繋がれたのではないか」という思いが湧いてきている。
病院にいったところで、意味がないと通院をやめてしまっていた気もするが。
診察券とカルテがあれば違ったのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!