「窓辺のキメラ」とSNSのサムネイル
こんにちは、むいかです。
先日、「窓辺のキメラ」という志賀耕太さんの展示に行ってきました。
どれも面白かったのですが、特に気に入ったのが「うらをめくるとおもしろいころがあるよ!」という写真作品と「東京可能世界 2022」という映像作品でした。
今回は「うらをめくるとおもしろいことがあるよ!」を鑑賞して考えたことを、一応発信をしている者として、その発信者の立場として述べていきます。
※あくまで私の解釈&感想なので、頓珍漢でもお許しを。
この作品は、入って一番最初に展示されていました。
「おもて」で直接的に誘っておきながら、「うら」を見れば実は大したことはない。
素直に、あぁ、なるほど。あるよね、こういうの。と思いました。
直接的な言葉の裏に隠された虚無感は、私達の生活のあらゆるところに顔を出しています。
例えば、私が最初に思いついたのはSNSのサムネイルでした。
昨今、サムネ詐欺とは言わずとも、サムネオチ的な部分を感じる発信はたくさん存在します。
YouTubeの「お知らせ」は大抵たいしたお知らせじゃないし、「閲覧注意」はそこまで注意じゃない。
Instagramの「アレ」「これ」「〇〇」は隠すほどでもない。
Twitterの「一番大事なのはプロフを見て」は結論は最初に言うべきだし、結論が全部同じ内容のもの発信しているの?と突っ込みたくなる。
(Twitterはサムネじゃないですが、表面的という意味で。)
もちろん、マーケティング戦略として効果が見込める部分もありますし、自分自身が情報発信をしていく上で、似た戦略を取ることもあります。
ただ、間違いなく虚無感。私が情報発信をしていなかった頃なら、どれも全部許せなかったと思います。
適当な言葉遊びで釣っているんじゃない、と。
少し前の私ならブチギレ案件ですが、最近は一見簡単そうに釣っている言葉ですらも、ちゃんと考えて使っているのだろう。ということが理解できるようになりました。
(たまに無思考で使用してるパターンも見かけますが…)
やっぱり視聴者側のリテラシーも少しづつ上がって来ていますし、ただ単純に使用するだけでは通用しなくなっているんですよね。
だからこそ、もしこうした直接的な言葉を使うのであれば、ちゃんと中身を伴わなければならない、と強く思います。
虚無感は、「おもて」と「うら」の乖離によって引き起こされ、それを埋められるのは「うら」にあたるコンテンツそのものの価値しかない。
この莫大な虚無感を新しく生み出さないようにしなければ、と個人的に少しチクリと刺された作品でした。
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