私が男性恐怖症になった”ワケ”
こんなタイトルをつけた。
もしかしたら、知っている人もいるかもしれないし、
知らない人もいるかもしれない。
ただ、最初に明記しておきたいことがある。
それは、私のこの「男性恐怖症」というのは、「男性嫌悪」の感情、所謂「ミサンドリー」とは全くもって別物である。
そして、全ての男性に対して恐怖を抱いているわけではない。
(説得力には欠けるかもしれないが、私は現在バイオロジカル的には「男性」と1年3ヶ月以上お付き合いしているし、バイト先、学校でも「男性」(ここでは敢えて括弧付き)とは普通の関係を保てているように思える。)
結局、自分の中でも何が最も大きな要因だったのかはわからない。
ただ、とにかくいろんなことがあった。
今日は中でも私の中で、忘れられない出来事を綴っていきたい。(私自身性的な表現はあまり書きたくないので、そこまで当たり障りのない内容に留めて置く。)
高校生の時。
私は、電車に乗って毎日登校していたのだが、
ある日知らない男性に、突然手を握られたことがあった。
その日の電車は、いつもよりは空いていたものの、朝の通勤・通学ラッシュで比較的に混んでいたため、この出来事に気づいた人はいないようだった。
「やめてください。」と言えなかった。
いや、正確にいうのならば、声が出なかった。
ただただ怖かった。
もしも、私が「やめて」と叫んだならば、
この人は、もしかしたら、逆上して攻撃してくるかもしれない。
手を繋がれているだけマシなのだ。
そう思い込もうとした。そう思い込ませた。
ここで、私が「やめて!」と叫べたら、何かが変わっていただろうか。
誰かが手を差し伸べてくれただろうか。
わからない。
結局私は、その男性と1駅分(約10分間)ずっと手を繋いでいた。
それまで、
ニュースで見る「痴漢」はいつも他人事だった。
見かけたら、通報してくださいと書かれたポスター、実際に被害に遭った人のインタビューは、いつも何処か他人事だった。
自分が「痴漢に遭う」とは思ってなかった。
いや、ずっと自分自身に「自分は違う」と思い込ませていた。
思えば、その出来事以前にも、「痴漢」に遭ったことはたくさんあった。
朝の混んでいる電車で、誰かの手が明らかに自分の太腿やお尻に触れていると感じたことは多々あった。
ずっとずっと気づかないふりをしてきた。
「痴漢にあったのではないか」考えれば考えるほど気持ちが悪くて、怖い。
だからこそ、そんな不安は見てみぬふりをし続けてきた。自分は違う。自分は違う。そう思い込ませていた。
だが、この手を握られた出来事は、私の中の「不安」は実は、「恐怖心」だと素直に確信するきっかけになった。同時に自分は如何に、自分の気持ちに目を背けてきたか、蓋をしてきたのか、を知った。
この日の夜、とっても明日が来るのが憂鬱だった。
また、手を握られるのではないか。
明日は何をされるのだろうか。
ただ、私はこれだけでは何も変わらなかった。
いや正確に言えば変われなかった。
私は、ずっとその恐怖を笑いに変えることしかできなかったからだ。
「今日、知らないおじさんにいきなり手を繋がれてさー。握手会してきたさ、笑」
「私のスレンダーな身体のどこがいいんだか。わかんないよね笑」
などとしか友人に話せなかった。
友人に笑い話のネタとして話すことが、怖さを忘れる全てだった。
私は、誰に助けを求めるべきなのかも、
実際に被害に遭った時、誰に相談するのかも知らなかった。
自分の感情には、必死で蓋をし続けた。
ある時、
実家に警察が来た。
弟と喧嘩になった。
警察が来たのは、私に暴力を振るう弟を誰も止められる人がいなかったからだ。つまり弟を落ち着かせようと、止めに入ったわけである。
(ここでは、弟となぜ喧嘩になったのかや、弟については詳しく書かない。ただ、誤解してほしくないのは、昔から弟とはずっと良い関係を築いており、今も仲良しである。ただ、この時の弟は、幼いが故に、少々喧嘩早いところがあった。きっと身長の伸びに心の成長が追いついていなかったのではないか、と思う。それに、ここまで弟を怒らせた私にも、絶対的に非がある。)
弟に怒鳴られながら、胸ぐらを掴まれた。
その時、私の目の前にいる弟は、いつもの「私の弟」ではなくなり、ひとりの180センチもある「男性」に様相を変えた。
その時、今までの恐怖経験がトラウマとして走馬灯のように私の頭の中を駆け巡った。
ただただ、怖かった。
自分の弟が見知らぬ「男性」になっているのを感じた。
私はと言うと、ただひたすら、力では到底敵わず、声を上げることもできない「女性」になっていた。
普段なら、言い返せるような、なんでも言い合えるような関係なのに。
力が及ばないものへの恐怖、トラウマ、諦観、などさまざまな感情が私の中を駆け巡ったように思う。
私は、弟の姿をした「別の何か」に怯えた。
前述したように、全ての男性に対して恐怖心を抱いている訳ではない。
しかし、これ以来、私は「男性恐怖症」になった。
ふとした時、さまざまなことがフラッシュバックしてしまう。
電車で、隣に「男性」が乗ってくる時は、どんなに具合が悪くて座りたくても恐怖心が勝ってしまう。
何かされるのではないか。
これはもう一種の拒絶反応として、私の中にある。
繰り返すが、全ての男性が悪い訳では無い。
今までの人生、たくさんの「男性」に救われたのも事実だ。
だが、
ここに私がフェミニズムを学ぶ理由がある。
私は、voice upの活動をサークルなどを通じてしていると、よく友人たちからは、
「あなたは何かあっても声を挙げられて安心だね」などと言われる。
しかし、決してそうではない。
私は今でも自分の気持ちに蓋をしてしまう。
私は、今でも「こういうことがあってとっても怖かった。悲しかった。」
など、自分の気持ちを語るのが本当に苦手だ。
困っている時ほど、どうしようもなく笑ってしまう。
「笑いながら泣いているような人だ」、と本当に親しい人なら、この言葉が私に如何に当てはまるのかがわかると思う。(実際に言われたこともある。)
私がフェミニズムを学ぶのは、自分自身の気持ちに正直になるためだ。
もしまた被害に遭った時。
どうすれば良いか。
誰に相談すれば良いか。
そして、同じように自分の気持ちに蓋をして、笑っている人には、自分が本当は「性被害」にあったことをもっと早く認識してほしい。
我慢しないで、見て見ぬふりをしないで、行動して欲しい。
そして、此処に書いているのは、どうすれば良いかをより多くの人に考えた欲しい。そう思っているからだ。
タイトルは、些かショッキングなものだと思う。
私もこれを書きながら、本当に自分は「男性恐怖症」なのだろうかと、改めて何度も考えた。
その答えは今でもわからない。
そして、実際、この問題を解決するに当たっては男性、女性と言った隔たりは関係なく、考えられるようにならねばならないとも思う。
だが、ただ、一つ。
私は、「声を挙げる」ことの大切さを伝えたい。
自分の気持ちに蓋をして、見て見ぬふりをして。
そんなの誰も望んではいない。
男性恐怖症というのは、「全ての男性に対して恐怖心がある訳ではない」
ただ、「声を挙げることを妨げる社会、声を挙げた者を排除しようとする社会に対する恐怖」があるのだ。
圧倒的な力で全てを無かったことにする社会に、私は恐怖を抱いている。