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愛されて育った結果、愛される人間たち②

許せないのは、痛みから離れるほどに何がどんな風に苦しかったのかひどく曖昧になっていくことだ。

すべては思い出せないのに変わらずに苦しい。というより、理由がはっきりしていないので更に苦しい。

どの出来事がなぜ許せないのか、分からないことが許せない。
冷たい床で寝かされたことか?食事をとらせてもらえなかったことか?無視され続けたことか?それとも、怒鳴られて首を絞められたことや突き飛ばされたことか? 
笑う顔も、睨む顔も、どんな顔も霞んで見える。

何も許せないけれど、言葉にもできない。

日々殴られていたような気もするし、優しくされたことがあるような気もするし、人間の機嫌に踊らされていた。

物心ついた頃から祖母とひっそり過ごしていた。
祖母は厳しかった。優しさに飢えていた。

母子家庭で育ったわたしは、母との思い出も少ない。
一緒に食事をとったことや髪を結んでもらったこと、すべて事細かに思い出せるほど回数が少ない。朝昼と眠って、夕方仕事に行く母とは、1週間のうち30分も顔を合わせる時間がなかった。誕生日もクリスマスもどんな行事のときも仕事をしていて、一緒に眠ることも会話をしたこともほとんどなかった。

年に一度は、休みの日に外に連れて行ってくれた。毎回変わる知らないおじさんと母とわたしと、三人で出かけた。それもすべて悲しかった。

日頃、誰とも会話をしないからそもそもアウトプットを知らず、受け入れることしか選択肢がないので自分の意思を尊重された経験もなく、嬉しい楽しいという感情を抱く時間もなく、毎日夜まで正座で本を読み漁り、先に眠る祖母の横でうまく眠れず、寂しくてひとり泣いていた。

人に見られて字を書くことや声を出すこと、表情を使うこと体を動かすこと、運動全般が怖くてできず、学校では笑われていた。これまた、毎日不安で泣いていた。

ひとの姿が見えない音楽と読書が好きだった。
悲しくて、小説や絵を描いた。楽譜が読めないのに作曲をした。

小学生の頃、母親の再婚で暮らしが変わった。

目つきの悪い知らない男の養子になり、彼は父親になった。一緒に住むことになってすぐに父が家を買った。一級建築士で、自分は社長だと言っていた。どうやら実家も太いらしい。

3人では部屋が余るほど、大きくて綺麗な一軒家だった。


抱えていた不安や寂しさは、恐怖に支配されることとなった。

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