起きるのが楽しみだったらいいのにな。
麦野です。こんにちは。まだ要点の定まっていない書き物です。今日のテーマはもしも毎朝、起きるのが楽しみだったらいいよね。
私たちの時は短く、あっという間です。幼い子どももいつの間にか大人になるように、若い時間は過ぎ、歳を重ね、地上の死を迎える時が来ます。歳を重ねて80歳くらいの高齢と呼ばれる方が、毎朝早起きして、体操する。それがすでに楽しい。今生きている、そのこと自体が嬉しい。感謝している。と言う動画を見たことがあります。歳を重ねてこの世的なことから少し離れているから言えるのかもしれないですが、そう思えるって素晴らしい。
主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。哀歌3:23
目が覚めるごとに、神様がいつくしみとあわれみを向けてくださいます。新しい恵みを与えてくださいます。目が覚めることを喜ぶことのできないこともたくさんをあることも知っています。わたしもそんなふうに目を覚ましたことはない方の人間です。それは喜びを持って目を覚ますには外側の要因が必要だと信じているからです。例えば、目を覚ますと好みのタイプの夫がにこやかに出迎えてくれるとか。即物的。楽しい予定でいっぱい、とか。喜びに値するような何かが、目に見える何かがあって、初めて私たちは喜んで目を覚ますことができる。
イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」ヨハネの福音書20:29
私たちは証拠を欲しがります。そのことにいい悪いはない。わたしも神様の証を読んだり見たり聞いたりするのは大好きです。ただ、見ずに信じられるものは幸いなのです。幸です。幸福なのです。朝目を覚まして、何の根拠もなく(信仰を持つものには神様という1番尊い根拠があります)喜ぶ。それが幸せ、なのです。ああまた、目が覚めて、神様と繋がることができる。そんな喜びに打ち震える。ちょっとクレイジーに見えるかもしれませんが、それが信仰を持つものの、無条件の喜びなのかもしれません。クレイジーですけど。
毎朝、新しいいつくしみとあわれみと愛を受け取って新しくされる。ピンとこないかもしれませんが、あなたにもそんな日々が訪れますように。神様の祝福がありますように。