人を嫌いになるということ
こんにちは。麦穂です。
お久しぶりになってしまいましたが、細々と生きておりました^^
内定先の友人がnoteを始めようと思っているとのことで刺激を受けまして、私も投稿を再開していこうかなと思っております。
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さて、今回は、「人を嫌いになるということ」について考えていきます。
はじめに
あまり自己肯定感が高くない私ですが、そんな私にも、1つ自分の好きなところがあります。
それは、「あまり人を嫌いにならないところ」です。
これは別に明確に意識しているわけではないのですが、気づいたらこういう生き方をしていました。
不必要に人に悪意を向けない生き方は、我ながらやっぱり生きやすいです。
せっかくの機会なので、そんな私がどういう考えをもって人と接しているのか、私にとって「人を嫌う」とはどういうことなのか、少し整理してみたいと思います。
「嫌い」と「知らない」は紙一重
突然ですが、SEKAI NO OWARIさんの『プレゼント』という曲を知っていますか?
私が中学生時代に知って、その歌詞に感銘を受けた曲です。
歌詞の一部、冒頭部分を引用しますね。
私は、この曲に出会ったときからこの歌詞がとても好きです。
そして、この考え方をずっと大事にしてきたように思います。
人間、「知らないもの」って怖いじゃないですか。
これは人に限らず、モノ、経験、場所などなど、万物に対して言えるのではないかと。
その未知への恐怖・不快感・違和感が、「嫌い」という感情となって現れるんじゃないかなと思うんです。
あの人、なんでこんな言い方するんだろう。
なんでこんな自己中心的なんだろう。
なんで私のことわかってくれないんだろう。
「よし、もう私この人のこと嫌いだ」と。
私は、直感的に人を嫌うことが絶対に悪い、と言うつもりはないです。
本当に直感で「この人合わんなぁ」と思うことは私だってありますし、そういう人と無理にわかり合おうとするのはシンプルにストレスですからね。
でも、もう少しだけ、向き合ってみませんか?という提案をさせてください。これも、あなたが「生きやすくなるため」のちょっとした辛抱です。
「生きやすくなるため」に必要なこと。
それは、「想像力を働かせること」です。
私はこの人の人生を一部しか知らない
例えば、皆さん『熱闘甲子園』っていう番組ご存じですかね。
甲子園の時期、深夜に放送される番組で、その日の出場校のチームの裏側や、注目選手の想い、監督の想い、ご家族や地域の方の想いなどがめちゃくちゃ深く知れる番組です。私はこの番組がすごく好きで、百発百中で感動してます。
『熱闘甲子園』は、「一つ一つのチームに背景がある」ということ、ただ甲子園を観るだけではつい忘れてしまうことを気づかせてくれるんです。
実際、ただ甲子園を見ていると、自分が応援している高校の相手の高校って、めちゃくちゃ敵対視してしまうじゃないですか。いやスポーツだから当たり前なんですけど。
ちょっと言い方悪いですけど、「打つな!」「ミスれ!」みたいな。笑
でも、熱闘甲子園を観てしまうと、そんな風に思えなくなってしまうんですよね。
甲子園を観ている間は「ただの敵」だった選手たちが、「ひとりの人間」として目に映るようになるんです。
彼らにも努力してきた日々があって、応援している人たちがいて、絶対に負けたくない想いがある、ひとりの人間なんだと。
そう気づいたとき、相手選手のことも少しだけ愛おしく感じるようになります。
人間関係も、同じだと思うんです。
私はいつも、人と関わってみて「あーこの人のこういうとこちょっと好かんかも」って思ってしまったときは、「でも私ってまだこの人のこと一部しか知らないよな」と思い直してみるようにしています。
この言動の裏にはどんな価値観があるんだろうか。
でもこの人こんな良いところもあるって誰かが言ってたな。
他の場所では、他の人にとってはこの人はどんな存在なんだろうな。
といったように、想像の角度はなんでもいいんですけど、「すぐ切り捨てる」のではなく、「いったん色んな仮説を立ててみる」こと。
これが、人間関係において「想像力を働かせること」です。
こうすることによって、きっとその人のことを「嫌い」の一言では済ませられなくなるはずです。
つい、人は人の一面だけを見て好きか嫌いか判断してしまいがちですけど、人ひとりの人生にはたくさんの経験と価値観が詰まっていて、色んな側面があって、それを知らない間に切り捨ててしまうのはもったいないよなぁ、と私は思います。
この章の締めに、これまた私が歌詞に感銘を受けた曲、SUPER BEAVERさんの『切望』という曲の一節を。
合わない人もいたっていい、人間だもの
それでも、こんな聖人みたいなこと言うてますけど、私にだって「この人はどうしても相容れん」って人はおります、もちろん。
どれだけ知ろうとしても価値観を理解できない人、価値観を理解した上で同意できない人、さらに直感でど〜〜〜しても合わないって人もいなくはないです。
これもまた、人間だし当たり前のことだと思ってます。
全人類と仲良しこよしになるのなんて不可能ですからね。
ただ、人と関わっていてちょっと頭に来たとき、なんやこいつっていう人と出会ったときに指針としている言葉があります。それがこちら。
『頭に来てもアホとは戦うな!』
なんともインパクトのある一言ですよね。
頭に来ても、ムキになって戦わない。あなたはそういう人なんですね、と受け容れる(「受け容れる」というか、「認識する」の方が近いかもしれない)。
戦うだけ無駄で、ただ体力が削がれるだけで、どちらも幸せにならないことを理解した上で接するというスタンスです。
急になんかドライな思想になりましたけれども、、w
でもこれも、「いったん想像力を働かせた上で」という前提があるので、「ここまで考えて合わないのなら合わないんだろうな」と、迷わず「戦わない」という選択がとれるんですよね。
合わない人なんていていいんですよ、人間だもの。
でも、合わない人がいたときに、必要以上にお互いの精神をすり減らす必要があるのかどうかは考えるべきだと思います。
その答えが、私にとっては「戦わない」なんですが、別に他の答えがあってもいいんだと思います。
合わない人と接しないといけないとき、あなたはいつもどうしますか?ぜひあなたの意見を教えてください。
おわりに
人間関係って、この世界で一番難しい問題なんじゃないかなと思うんですよね。
『嫌われる勇気』で有名なアドラー心理学でも、「すべての問題は対人関係の問題である」と言われています。
しかも、「過去と他人は変えられない」とも言われますよね。じゃあどうすりゃええねん。
結論、人間関係への向き合い方は、人それぞれでいいんだと思います。
今回は私の考え方をお伝えしましたが、これが正解なわけではないし、そもそも人間関係に正解ってないんだと思います。人間関係自体が、「人と人」っていう、この上なく不完全なものによって成り立っているものなので。
だからこそ、これからも「私にとって一番心地よい考え方を探そう」くらいのニュアンスで、人と向き合い続けていこうと思います。
人間関係についてまた考えが更新されたら、いつか新しい記事を書くかもしれませんね。
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今日はこの辺りで。
今回もお付き合いいただきありがとうございました!