蛇足①
7月某日、数か月前に分かれた恋人から、連絡が来た。
21時過ぎに着信が2回。
気づかなかったふりをしてやりすごした。このまま音沙汰なく終われという念を送って。
しかしそんな思いも虚しく、翌日も連絡が来た。
朝10時、着信が1回と、LINEのメッセージ。
「話したいことがあるから会いたい」
逃げられない、そう感じた。
わたしの平穏でハッピーなおひとり様ライフに終止符が打たれた瞬間だった。
予想できた展開は2つ。
①嫁に俺たちの関係がばれたから慰謝料を払ってくれ
②離婚したから復縁したい
どっちでも最悪の展開に違いないけれど、①だったらまだいいかな~なんて思った。
慰謝料を払うのはしがない一般会社員にとっちゃ相当な痛手だけれど、まあそれでことが済むなら構わない。相場は付き合っていた頃に散々調べていた。状況により違うけれど、基本100~300万。200万の幅ってなによ。仕事中に何回も電卓を叩いてシミュレーションした。100万なら大丈夫。200万だとちょいきつい。300万は負債。しんどいけれど自業自得ですからね。
それで、結果はと言うと。最悪よりも最悪だった。
「娘が成人したら離婚できることになった」
「嫁の監視も緩くなったから、また会ったりできる」
「だから」
だから??だから何??何だよ言ってみろ!!!!
いくら監視が緩くなったって、不貞行為を咎められなくなったって、また不倫の関係に戻ろうとするあなたのその行動の根拠が「愛」だなんて言わせない。愛じゃない。そんなの愛じゃない。ふざけるな。
愛してるなんて言ってみろ。この場でブッ××してやる。
「もう戻らないよ」
なぜなら気持ちが離れたから。たった今、完全に。
あなたが久しぶりの連絡をしてくるその時まで、わたしはあなたのことが大事だった。たくさん傷ついたけれど、痛くなくなっても「この傷はね」って語れるような恋だったから。
もう最悪だ。1000万の慰謝料を請求されるよりも人生の終わりを感じた。殺してくれ、だれか。お願いだから殺して。こんな展開あんまりだ。
彼は、その日はいったん引いたけれど、またすぐに会いたいと連絡してきた。
わたしは電話がいいとかLINEがいいとか言ってみたけれど、とにかく会って話がしたいとのことで渋々承諾した。
そして当日、食事がてら話し合うという流れで車に乗ったらラブホテルに連れていかれた。
付き合っていた頃の感覚で、抵抗せずついて行ったのが間違いだった。
部屋に着くと彼はわたしを部屋の奥のソファに座らせ、自分はベッドに腰掛けた。
「服脱いで」
わたしは彼とウシジマくんシリーズを全部見たから、その言葉の意図はすぐにわかった。
スマホも取り上げられた。部屋を出るには精算機で料金を支払わないと鍵が開かない。声を上げてももちろん誰にも届かない。
もう、ただの元恋人同士の話し合いの緊張感を遥かに超えていた。
彼が長いため息をつく。
わたしはテーブルの上の灰皿をじっと見つめた。ホテルにガラスの灰皿を置くのはやめた方がいいんじゃないか。ずっしりとした存在感があるそれは、今この瞬間、凶器としての役割を待っているようにしか見えない。
彼は感情の搾りカスみたいな声で、たった数か月で気持ちが離れたわたしのことが信じられないと詰った。別れてから今まで、どんな男性とどのように関りを持ったのかを問い質した。
だんだんとエスカレートしていって、初めて聞いた、彼の怒鳴り声。
振るった拳がテレビを直撃して画面が歪んだ。実家の凹んだ冷蔵庫を思い出した。
密室で、物理的に勝ち目がないという恐怖。次の瞬間にはあの拳が自分の身に振り下ろされるかもしれない。
身じろぎもできないまま、脳味噌だけがぐつぐつと煮えていた。
どうしてわたしが責められてるんだろう。
だってわたし、「待ってて」なんて、言われてないよ。
「待ってて」って、言ってほしかったけど、言われなかったよ。
彼は、あれは苦渋の決断だったのだと言った。
離婚が確実になるまで、距離を置くために別れたのだと。
「俺だって本当は、待っててって言いたかったよ!!」
じゃあ言ってくれれば良かったのに。わたしはそのたった一言さえあれば、今でもあなたのことを必要としていたよ。
全部無駄になったなあ。
毎日泣いてご飯も食べられなかった2か月も、その間に減った体重も、一緒に泣いてくれたあの子の涙も、平気なふりして生きてた毎日も、全部。
「俺はこの5か月、一緒になるために頑張ってたのに。どうして戻れないなんて言うんだ」
そう言って泣く彼は、もう大切な元恋人ではなかった。
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