あとがき⑴誰だって特別になりたい
薔薇の花束をくれた後輩のナルシズムはいきすぎていた。
でも、彼と同じような気持ちを誰でも抱いているんじゃないか。
「自分は天才だ」
「自分は美しい」
そう言い聞かせるのは、自分が紛れもなく凡人であるとわかっているから。
わたしは昔から、絵を描くのが好きだった。
小学生の頃は県展で毎度のように賞を取っていたし、中学生の頃は修学旅行やなんかのしおりの表紙はいつもわたしの絵だった。
「特技は?」と訊かれたら、「絵を描くことです」と答えられた。何の迷いもなく。
でも、大学生になった今は違う。
世の中にはもっと絵が上手い人なんて山ほどいて、なんならその人はすごく身近にいたりして。
高校生のとき、進学先を決めなければいけないという頃に母が言った。
「絵は、趣味でいいんでしょ?」
わたしは、即答こそできなかったけれど、「うん」と答えた。
勘違いしてほしくないのは、母のせいで絵を諦めたわけじゃないということ。
わたしは挫折するのが怖かった。
美大に行くことを決めたとして、まず受からないことが怖かった。仮に受かったとしても、周りの才能溢れる人たちに心が押しつぶされてしまうのが怖かった。無事卒業できても、仕事がないかもしれないと思うと怖かった。たくさんたくさん努力して、その後で失敗するのが怖かった。
だから、美大を目指すことはしなかった。
目指せなかったんじゃない。
「目指さない」を選んだ。
友達はよく、わたしを「強い人」だと言う。
でも違う。わたしは弱くて、いつも辛いことから逃げてばかりの、「普通の人」だ。「普通の人」よりも脆いかもしれない。
自分でもそれをわかっているから、いつだって「強い人」でありたくて、「強い人」に近づけるように振る舞う。誹謗中傷に傷つかないし、理不尽なことがあっても「ウケるね」って流す。
そうすれば「強い人」でいられるし、そんな自分を好きだと思える。特別な存在だと錯覚できる。
後輩のナルシズムも、きっと一種の自己暗示なのだ。
いつか、彼はふいに漏らしていた。
「僕は醜い」
彼は、「醜い自分」を自覚しているがゆえに、「美しい自分」像を作り上げて、それに近づこうとしていたんじゃないか。
もちろん、「苦悩する自分」にすら陶酔していた可能性はあるけれど。それだって、自分を愛するための自己暗示だったかもしれない。
ナルシズムの根底には、蓋をされた自己嫌悪が眠っているのだろう。
とにかく、彼の痛みは少しだけ分かる気がする。
その暗示の材料が「わたしへの愛」であったことは、不愉快極まりないけれど。
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