あとがき⑵愛を伝えたいというエゴ

「思っていることは言葉にしないと伝わらない」

擦り切れるほど使われてきたフレーズだけれど、「そうだよなあ」と思う。
たしかに思っていることを直接人に伝えるのは勇気が要る。SNSで不特定多数に発信する方がずっと気が楽。だからこそ、特定の誰かに何かを伝えるということは、とても大切なことだ。

でも世の中には、場合によっては伝えない方がいいこともある。
例えば、愛。

「愛だって伝えるべきだ」と言う人もいるだろう。それはわかるし、異論はない。
でも、全ての場合において「愛は伝えるべき」なのか。

そもそも愛とは何か。

正直そんなことは知らないけど、少なくとも「相手を思いやる気持ち」は含まれているべきだと思う。
そして、相手を思いやった結果、「伝えないべき」という結果になってしまう愛もある。

例えば、相手の愛が自分に注がれないとき。つまり片想いの場合。
片想いであると発覚した時点で、相手は愛を伝えられることを望んでいない。そのときはもう、愛を伝えるのは止めるべきだ。

それにもかかわらず、一方的でもいいからと愛を伝え続ける人がいるのだ。
花束を贈ったり、手紙を書いたり、身の回りの世話をしたり、その人に見合う人間になろうとしたり、その人のことを理解しているように振舞ったりする。

「わたしはあなたのためならなんでもできる」
「振り向かなくてもいいから想いを伝えたい」

そりゃ、気持ちを向ける側は楽しい。
好きな人に好きだと言って、好きな人のために好きなことをする。最高だ。

でも、気持ちを向けられる側は?
好きでもない人間から好きだと言われて、好きでもない人間に頼んでもないことをされる。特段嫌ではなくても、面倒だったりするのは事実だ。

結局、愛を伝えるというのはわがままにすぎない。自分勝手、自己満足。

よく、拒みきれない方も悪いという声も聞く。ひどい場合にはクズ呼ばわり。でもそんなの、責任転嫁もいいところ。
だって、相手が勝手に好きになって、勝手に愛を投げつけてきているのだ。たとえ拒んでも、愛を伝えたいだけだから、と言うのだ。放っておいて、好きなようにさせて何が悪い。

ただ思うのは、投げつけられてベコベコに凹んだ愛は、側から見れば丸めたティッシュと同じだということ。

それが収まるべきところはゴミ箱なのだ。

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