宅・勤・考
日高屋が大学の近くにあったからよく使ってたんだけど、「ラ・餃・チャ」のネーミングにいつまでもウケてた。在宅勤務・自宅待機を合わせて2週間が経ったのでその間に考えたことなど書きます。
まず着手したのは部屋の片づけ。家に長時間いるなら、とにかくほとんどを過ごす自室を快適にするより他ない。同じことを考えている人は多そう。わたしの片づけは、収納ツールを捨てることから始める。服を整理するなら衣装ケースから捨てて、次に納まらない服を捨てる。物を捨てるのは結構好き。理由はわからないけど、誰だって無駄な物抱えていたくないよね、ってことなんだと思う。机の片づけみたいに入れ物を捨てられないときは、捨てる量を先に決める。45リットルの袋2枚分、とか。大体達成できる。「いらないもの」は日々更新されるので、一日寝かせるともっと捨てられる。一度捨てたものを取り出すことはない。ゴミになった瞬間に記憶から消える。
どちらかというと、物に囲まれていたい性分。でも自分が大事にしたいものだけに囲まれていたい。例えば本とか、昔貰った手紙とか、捨てるのを躊躇うものってたくさんある。本も手紙も、自分を構成する要素のひとつだからだと思う。でも今回の片づけで、本も手紙もたくさん捨てた。本は、読んだ時のことや買った時の印象が薄いものは手放した。手紙は、もう関りがない人からのものを捨てた。昔の友達からの手紙は、セミの抜け殻みたいで気持ち悪い。抜け殻にセミの存在を感じることはできない、ごみ。最悪の例えだったかも。
全部を大事にするのってすごく難しい。いつからかわからないけれど、いろんなものを切り捨てる癖がついたなあと思う。荷物が多いだけでひどく疲れるのが嫌だ。キャパシティをはるかに超えたものを抱えて歩いている人をたまに見かける。捨てられない人は大変そうだなあと思う。それとも楽しんでるのかな本人は。わたしは身軽が好き。
そういえば、荷物を持たなくてもいい方法もある。わたしは高校生のときは何も持たないで生活していた。それは、着ぐるみを着ていたかから。着ぐるみの種類は何でもいいけど、「本来の姿ではない」かつ「みんなに好まれる」ということが個人的な条件。猫がベター。懐っこい犬とか、剽軽な猿は向いてない。猫の着ぐるみを着ているときは、人間関係とか、大事に抱え込まなくても、それなりに可愛がられて終わる。その場合他の人たちにとって「実際に心が通っているか」は問題ではない。何を求めるかは動物による。「癒し」だったり「笑い」だったり。それが満たされていればOK。わたしは基本的には教室では着ぐるみを着ていた。人間ではなかった。みんなはわたしを猫だと信じ込んでいた。それが辛かったことはない。干渉されないのは楽でよかった。人間関係が煩わしい人のためのライフハック。
大学生になって、高校時代クラスが一緒だった子と仲良くなった。人間の状態で会った。彼女はわたしが教室で着ぐるみを着ていたことを知っていた。本当は猫なんかじゃなくて、人間だということを知っていた。信頼できるなあと思った。それで、お酒を飲みながら、もしかしたらみんな着ぐるみだったのかもしれないという話をした。「あの狭い箱の中の人間が全員かりそめの姿だったらめちゃくちゃこわいね」こわい。でもあり得ることだとは思う。
大学生になってから着ぐるみは捨てた。大学はやっぱり価値観の近い人間が集まる。わたしの周りは、いい意味で「他人はしょせん他人」という人ばかりだった。お互いに「理解できない」と言っていたけど、仲は良かった。この前読んだ千早茜の『男ともだち』にあった一文。「傷のある人とじゃなきゃ仲良くできないわけじゃない。人はわかり合えないということを知っている人といる方が気持ちが楽なのだ。」まさにこれ。100それな。わたしはこの概念がない人が本当に苦手。人と人はわかり合えると思っている人類、ありえない。「理解すること」と「受け入れること」は違う。他人と一体化しようとすんな。自分の考えと他人の考えは、「わかる~!」となった時でさえ誤差がある。わたしたちは考えを人に伝えるとき、多くの場合は言語を用いる。考えを言語化する時点で誤差は生じている。それを他の人間が受け取るときはもう少し大きくズレる。だから完全に一致なんかしない。だからといって「わかる!」という人に「はあ?何言ってんの人間はわかり合えない云々」ということを言って突っかかったりはしない。相手がどういうタイプの人間か知っていれば、その「わかる」が「完全一致!」なのか「自分の考えに限りなく近い!」なのかは予想できるから。だからわたしも「わかる」って使う。相手がどう捉えているかは知らない。
人間が思考を表現する手段として、言語の他に芸術がある。なんでもいい。映画でも演劇でも絵画でも。わたしたちは芸術を通して相手の思考を観測することができる。作品は思考診断チャートだ。各項で「YES」か「NO」を選ぶことで、各々の答えにたどり着く。どちらを選ぶかは、鑑賞者の知識と経験、想像力によって変わる。「主人公は傷ついたと思いますか?」「YES」「この作品の主題は"戦争"ですか?」「NO」こんな具合に進む。診断結果が「Aタイプ」でも「Bタイプ」でも、別に問題はない。正解がないというのが芸術のセオリーだから。とはいえ、同じタイプに行きついた人がいたら嬉しいのも事実。オタク同士が仲良くなるのは診断結果に基づいていると思う。もちろんこんなもので「完全一致」は望めない。でも「わかる」くらいまではいける。また、異なる結果の人には「そういう人ね」と把握したうえで距離を置くなり歩み寄るなりできる。わたしたちは作品を通して相手の思考を垣間見ることができる。
時間があるとこんなことばかり考えるのに、飲みに行けないから発散する場がない。わたしはお酒が好きというよりお酒の席が好きなんだな。飲みがないとお金が貯まるのは嬉しい。初任給がすごいことになっていて、それは今月と来月分の定期代が含まれているからだったんだけど、今月の定期代、くれるの??って感じ。とりあえす通販で財布を買った。ヴィヴィアンがボスハールトというオランダの画家とコラボしたやつ。いくつになっても花柄が好き。配達員さん仕事増やしてごめん。不要不急です。この状況でも働かなきゃいけない人って、正直どういう心境なんだろう。感染が怖いのと、お金がないと困るのと、半々なのかな。世間一般でコンビニ店員さんとかって誰でもできるバイトの代表とか軽んじられたりするけど、居なくなったら一番困る。コロナ始まってから、世界のあらゆることは人間が回してるって実感した。赤の他人の実在を感じる、これはレア体験。コロナ終わったら○○しようね!みたいなの溜まりすぎてて全部忘れちゃったな。ディズニー行きたい。お酒を飲みながら支離滅裂で赤裸々な議論をしたい。したいよ~!
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